韓国ドラマ「広開土太王」に登場する実在人物のその後について
フィクションを織り交ぜた歴史ドラマは、どこから史実で、どの辺りがフィクションなのか?
気になるところなので、調べてみました。
高句麗王第19代タムドク
高句麗王第19代タムドク(374年ー412年)は、もちろん、史実に残り、領土を広げた王として有名な人です。
好太王(高句麗王第19代タムドク)の業績を称えるため、子の長寿王が、現在の中華人民共和国吉林省通化市集安市に存在する石碑「広開土王碑(こうかいどおうひ)」を建立したことで、後世まで、歴史の貴重な資料として、残されています。
石碑にある「大王」と「太王」の違いについて
”大王”とは、天皇のような地位を示すものとして、よく使われます。本来は、「王」と表すはずのところ、特に突出した功績があり、より賞賛をしたい時に「大王」と呼ばれたりします。
”太王”とは、神王、聖上などと一緒に、君主を称える称号として使われます。「大王」よりも、さらに、賞賛の意を込めていると思われます。
韓国ドラマ「広開土太王」のラストシーンでも、ヨ・ソッケが、タムドクのとこを「大王」ではなく、「太王!」と称賛して幕を閉じます。
韓国ドラマ「広開土太王」と重なるタムドクが活躍する史実!
391年に王位に就く。
392年、北方で契丹を征伐し、男女500人を捕らえるとともに、契丹の捕虜となっていた高句麗人1万人を連れ戻した。
392年、石硯城(黄海北道開豊郡北面青石洞)を含めた10城を奪取し、関彌城を陥落。
396年、漢江を越えて侵攻して、百済の58城700村を陥落させ、百済王に多数の生口(かつての中国や朝鮮半島における捕虜または奴隷を示す言葉)や織物を献上させ、永く隷属することを誓わせた。
399年~400年、高句麗は倭の侵攻を受けていた新羅に歩騎五万を派遣し、新羅を救援する。(広開土太王石碑に記載)
400年、後燕王が蘇子河流域にあった高句麗の南蘇城と新城に侵攻して来ると、好太王は後燕に対する反撃を敢行。(※ただし、ここで言う後燕王は、慕容宝ではなく、慕容宝の長子と史実にあります。)
407年、後燕に侵攻して6城を討ち鎧一万領を得た。(ドラマの最終回)
とあります。
ドラマ的には、その後、戦の無い、平和な時代が末永く続いた?
という印象でも持ちそうなほど、高句麗を侵略しようとするすべての周辺国を支配下に置き、問題が解決したかのように思いました。
しかし、この後、最終回のハッピーエンドを覆す出来事が多々あったようです。
広開土太王の死
広開土太王(タムドク)は、374年ー412年の人なので、最終回の後、5年後の39歳で亡くなってしまったことになります。
死の原因として、殺されたというような記述は見つかりませんでしたので、多くの戦で負った傷などもあり、死を早めたか、病死だったのかもしれません。
それでも、18歳で即位し、在位期間は、22年間もあります。
広開土太王の配偶者として、5人の女性の名前が残っています。
《配偶者》
徐琦荷
秀芝妮
桃榮(トヨン)
躍延(ヤギョン)
雪芝
この中に、韓国語で、「トヨン」と「ヤギョン」と読める名前がありますので、ドラマのモデルになったのかもしれません。
コ・ウン(慕容雲)
コ・ウン(慕容雲)は、実在人物です。
ドラマの父:ケ・ヨンスとは、姓が異なりますので、ケ・ヨンスがフィクションの人物だと思われます。
コ・ウンの正しい名前は、「高 雲(こう うん)」というそうです。
武功を立てて慕容宝の養子となり、慕容雲(ぼよう うん)と改姓していたのも事実のようです。
過去に、高句麗の王族は、姓を高氏として青山に移り住み、前燕や後燕に仕えたことがあり、その後裔だと思われます。
タムドクの姓も「高」であり、ドラマでも、大叔父などにあたる王族に、コ・ム大将軍、コ・チャン将軍などもいました。
高句麗の王族は、代々、桂(ケル)族で受け継がれており、一方、ドラマ上のケ・ヨンスは、消奴(ソノ)族として扱われていました。
出生が不詳のコ・ウンは、家族構成が脚色され、タムドクの敵に寝返る高句麗人として丁度良い存在だったのでしょう。
慕容雲は、ドラマのように頭のキレる賢いイメージの人ではなく、口数が少なく、時の人に愚人と言われましたが、馮跋だけはその度量を認めて友としていたそうです。
そして、史実の馮跋は、後に北燕の天王として慕容雲を擁立して北燕を建てます。
この時、姓を「高雲」に戻したそうです。
しかし、高雲は馮跋の傀儡のような存在で、残念ながら、409年冬、高雲は寵臣の離班と桃仁に殺されてしまいますので、在位期間は、極僅かということになります。
つまり、ドラマの最終回から、1~2年後には、亡くなってしまうということになりますね~!
馮跋の配下が、高雲を殺害した離班と桃仁を討ち、高雲を恵懿皇帝と諡したそうです。
コ・ウン(慕容雲)亡き後、この人が皇帝に!
漢族出身の後燕の将軍であった馮跋将軍が、慕容熙を殺害して高句麗出身の慕容雲(高雲)を擁立し、北燕を立てました。
しかし、慕容雲が近臣に殺された後、
馮跋が北燕の天王の位についた!
と史実に残されています。
ドラマでは想像もしなかった馮跋将軍の大出世が、最終回以降の歴史に残されていたのです。
北燕の初代天皇を高雲とみる説と、高雲が後燕の最後の皇帝で、馮跋を北燕の初代天皇とみる説もあるそうですが、
記録としては、王朝「北燕」第2代天王が馮跋(諡号 文成帝)となっています。
在位期間は、409年 – 430年の22年間もあり、馮跋は政事に勤め、農耕を奨励し、税役を軽くしたたため、民に大喜びされるほど、善政を敷いたと言われています。
史実に残された、最後に笑った人物は、太平の世を22年間も行なった天皇、
馮跋将軍だった!
のようです。
北燕とは?
中国の五胡十六国時代の王朝のひとつ(407年 – 436年)です。
つまり、韓国ドラマ「広開土太王」の最終回以降から、僅か29年間存在した国です。
高雲と馮跋が支配した後、あまり長く続かなかったようですね~。
実は、建国以来、北魏との関係がよくなく、ずっと圧力を受け続けていたこともありました。
この地図を見ると、北燕は、小国で、北魏は、大国として勢力を伸ばしているのが分かります。
広開土太王の死後、北魏は、すぐに巻き返したことが、分かりますね。
430年には、馮跋が病で倒れ、後継者争いが起きたことも、国を弱体化させた理由とも言えます。
馮跋が病で倒れると、外戚の宋氏(馮跋の妾・宋夫人)が、後継者の太子馮翼(馮跋の次男)を差し置いて我が子を即位させようと謀り、
馮弘(馮跋の弟)はこの対立につけこんで宋氏を殺し実権を握りました。
それを知った馮跋がショックのあまり急逝し、馮弘は第3代目天王となり、馮翼ら馮跋の子全員を殺害。
436年3月には、北魏の大規模な攻勢を受け、北燕は国家として滅亡したようです。
ちなみに、馮弘(馮跋の弟)は、この時、北魏の大規模な攻勢に、高句麗に亡命し、高句麗で宋への亡命を希望しましたが、北魏の圧力に屈した高句麗によって殺害されたそうです。
因果応報というか、先帝やその家族を殺して即位した悪行のせいか、
馮跋も馮弘も、幸せな最期を迎えられなかったみたいですね!