戊午士禍とは?
「戊午士禍(ぼごしか)」は、燕山君の在位中、「士林派」に対する政治的迫害事件の一つで、『朝鮮王朝実録 成宗実録』の編纂過程で、金宗直の書いた「弔義帝文」の史草が問題となり、多くの士林派が処分された事件。
戊午士禍の流れ
「士林派」と「勲旧派」の対立の始まり
朝鮮王第9代成宗は、士林派の金宗直一派を登用して、儒教的な王道政治を展開しようと努めました。
そのため、士林勢力は、成宗の意図的な支援を受け、司憲府、司諫院、弘文館の主に言論を担当していた三司で活動します。
・司諫院:国王に対する諫奏《強く諫めること》と政治一般に対する言論を担当。
・弘文館:宮中の書籍と文献を担当し、王と政治対話を交える経筵官として王の学問的、政治的な諮間に応じる学術的な職務を任された部署。世祖時代に集賢殿が廃止されてからは、その機能をも担った。
1494年12月に成宗が死去し、1495年4月から「春秋館」のなかに実録庁が設置され、成宗実録の編纂が始まりました。
成宗実録の編纂にあたり、この事件(戊午士禍)が起こる!
1495年、実録庁が開設され、ある日、李克墩も実録作業の堂上官に任命されました。
編纂が大詰めを迎えた1498年、李克墩は、金馹孫(金宗直の弟子)が作成した史草の点検過程で金宗直の書いた「弔義帝文」と、自分(李克墩)を批判する上疏文を見つけたのです。
【李克墩が問題と考えた部分】
※これは、世祖の端宗廃位に当てつけたもので、暗に世祖の王位纂奪を非難したものと解釈された。
※ところが、それが史草にまで載せられていることを知り、李克墩は沸き上がる怒りを抑えきれなかった。
そこで、李克墩は、この上疏文を書いた金宗直とは犬猿の仲だった柳子光(勲旧派の実力者)の家に駆けつけ、相談しました。
※柳子光が金宗直を嫌う理由>>>咸安の官庁に張ってあった柳子光の文を金宗直が燃やしたり、柳子光を「不当な輩だ」と軽蔑した発言をされるなど、政治姿勢を厳しく批判された経験があった。
派閥争いに巻き込まれた燕山君
この話を聞いた柳子光は、金宗直と弟子たちを中心とする士林派の排除を狙って燕山君に上疏します。
【燕山君の対応】
■士林派への政治的迫害を容認!
すぐに金馹孫を捕らえて、取り調べさせた。そこで、「弔義帝文」を史草に載せたのは金宗直の指示によるとの陳述を吐かせ、燕山君は金馹孫をはじめとするすべての金宗直門下を処分しました。
・燕山君自身も、即位以来、事あるごとに諫言する士林派を不快に思っていた。
・インス大妃に評価されたかった!
成宗実録の編纂に関して、本来、王は閲覧したり、口出しは禁止とされています。
それなのに、「インス大妃に評価」にされると判断した理由は、どちらの上疏文も、思慮深さに欠けている燕山君にとっては、どうでもいい内容。
しかし、”世祖の王位纂奪”という表現が、当時、最も困る人物は、インス大妃自身だったと思われます。
世祖が王位に就くきっかけとなった「癸酉靖難」には、インス大妃自身も加担している点。
そして、もし、それが”纂奪”と評価をされれば、その後の王位継承者全員が、王としての正統性が無くなってしまい、
我が愛する息子の第9代王成宗の王位も正統性を失ってしまうことになるため、燕山君がこの一件をインス大妃に報告しても、成宗実録の編纂内容を閲覧したことよりも、重大な問題であると、かなり焦ったに違いないでしょう。
韓国ドラマ「王と妃」でも、インス大妃に役立つ仕事ができたことを自慢する燕山君が描かれています。
また、そのように考えるように、柳子光は、燕山君を上手に口車に乗せ、利用したのでしょう。
【刑の執行】
処分された人名 | 実行された刑 | 罪状 |
金宗直(処刑時は、すでに故人) | 「剖棺斬屍刑」(棺を破って遺体の首を切る刑) | 世祖の王位纂奪を嘘の非難により、それ以降の歴代王を貶めようとした罪。 |
金鵬孫、権五福、許磐など | 「凌遅処斬」(処刑した後、頭、胴体、手足を、さらに切断する極刑) | 悪逆な党派を成して世祖を辱めたとの理由。 |
姜謙 | 「梶杖」(平たい梶棒で罪人の尻を叩く刑罰)百回と家産没収。さらに辺境の官奴とする。 | 悪逆な党派を成して世祖を辱めたとの理由。 |
鄭汝昌、任熙載など | 梶杖百回とされ、三千里の外に配流。 | 「不告之罪」 |
金宏弼、李宗準など | 梶杖と配流とし、配流地で峰火台の建設作業に当たらせた。 | 金宗直の弟子として朋党を作って国政を誹謗し、「弔義帝文」の挿入を助けた罪。 |
魚世謙、李克敏 | 罷免 | 修史官(実録資料の史草を管掌する官吏)として問題の史草を目にしていながら、報告しなかった罪。 |
洪貴達、許深など | 左遷 | 問題の史草を目にしていながら、報告しなかった罪。 |
李克墩 (最初の告発者) |
免職(左遷という説もある) | 問題の史草を知りながら報告を怠った。 |
※柳子光だけは燕山君の信任を受けて、朝廷の大勢を掌握しました。
このため、政局は領議政の虜思慎(勲旧派)をはじめとする勲旧、戚臣勢力が主導することになりました。
李克墩の愚かな振る舞いのせいで、随分大事になったのね~!
※参考:「Wikipedia」「燕山君日記」より・・・一部において「人名の漢字」が現代の文字と異なるため、正式な漢字でないものが含まれています。