柳成龍(リュ・ソンリョン)

柳成龍(リュ・ソンリョン)

プロフィール

リュ・ソンリョン(柳成龍、号は西厓、1542~1607)

派閥:東人派(東人派分裂後は南人派)

子孫:韓国の俳優リュ・シウォン(柳時元)は14代目の末裔、日本のタレントリュウ・ヒジュン(柳熺俊)は17代目の末裔、囲碁棋士の柳時熏は末裔。

幼馴染に李舜臣がいます。

政治

1590年、右議政に昇進し、功臣三等・豊原府院君に叙され、翌年、左議政になります。

さらに、壬辰倭乱(じんしんわらん)の起きた1592年に最高位の領議政の地位に就きました。

ただし、宣祖と共に平壌を退く途中に、「秀吉は朝鮮を侵略できる器ではない」と日本の様子を主張した金誠一を支持していたことや、倭乱の責任そのものを反対派に問われた結果、領議政に任命されたその日のうちに、すべての官職から罷免されました。

その後、明の援軍が来ると接待役となり、翌年、平安道偵察使として、明の将軍の李如松と共に平壌を奪還。三道都体察使となって戦功を重ねて復権しました。

再び領議政となり、朝鮮全軍を指揮する立場となったことで、破綻した財政や軍事強化のため、両班にも軍事義務づけたり、税金を納めてもらうこと、奴婢でも才能があれば免賤されるなど、両班を敵に回すような政策を次々と打ち出しながら、訓錬都監を創設、壊滅した軍の再建にも努めました。

この戦時下により、李舜臣、権慄(けんりつ)らの名将を異例の昇進で登用したほか、軍隊養成のため訓錬都監を新設したこと、朝鮮独自の技術の「飛撃震天雷」や、「火車」(矢を連発して放てるロケット噴射)火器製造、水軍の「亀甲船」、鳥銃の進化、城郭修復など、

軍備の充実に努力した時の反省点や経緯を後世の政治に活かしてもらうため、著書に『西厓集』『懲毖録』などを執筆しています。

《懲毖録とは?》
※1592‐1598年壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)の経緯を、後世の参考になるように反省点を交えて柳成龍が政界引退後に私的に執筆したものです。
宣祖・第14代王

小西行長 と明の 沈惟敬 による偽の講和条約一部始終|懲毖録<ジンビロク>より

小西行長 と明の 沈惟敬 は、なぜ、偽の講和条約を結ぼうとしたのか?当時、第14代朝鮮王宣祖の側近だったリュ・ソンリョン(柳成龍)が執筆した懲毖録<ジンビロク>より、その詳細に迫ります。
イ・スンシン(亀甲船)

社会科の教科書にも載っている亀甲船で戦ったというイ・スンシンの死の真相とは?

秀吉の朝鮮出兵の一部始終を、王の側近として見てきたリュ・ソンリョンが書いた懲毖録(ジンビロク)によって、イ・スンシンの戦死の原因が明らかにされています。
テキストのコピーはできません。