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小西行長 と明の 沈惟敬 による偽の講和条約一部始終|懲毖録<ジンビロク>より

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宣祖・第14代王
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懲毖録<ジンビロク>の興味深い内容:小西行長編

朝鮮王宣祖と朝廷は、秀吉の侵攻は無いと判断していた!

天下統一を果たした秀吉から使節が派遣され、書状に、

大明帝国の征服を目指すため、出兵に際して経由地となる朝鮮に日本への「服属」と「明への先導」を命じ、従わなければ討つ!

と書かれていたことで朝鮮側の反発が起き拒否をすると、今度は「明国までの道を貸すように」という言い回しを和らげた再度の書状も断ったことで朝鮮との戦いという流れに歴史上はなっています。

「服属して、一緒に明を討つ!」(征明嚮導)
「明への朝貢のための道を貸すだけ!(仮途入明)」
同じ人の言葉と思えないような、ずいぶん、意味が違うわね~!

 

これは、後に、小西行長と明の沈惟敬による偽の講和条約が発覚したことで、この辺りの矛盾点が後から明らかになったみたいですね~。

朝鮮側の朝廷は、この矛盾点を探るために、朝廷で1年間の期間をかけて、朝鮮から日本へ朝鮮通信使を派遣をしています。

ところが、実際に、来日して偵察してきた官僚は、帰国後、次のように報告しました。

西人派の通信使の正使黄 允吉(ファン・ユンギル)は、

「秀吉の侵攻はある!備えなければ!」

東人派で副使の金誠一(キム・ソンイル)は、

「日本のからの来襲はない!」

と、180度違う意見を報告し、朝廷に混乱を与えました。

日頃から派閥党争が当たり前だったため、判断については派閥の勢いのある方に傾きながら、侵攻に対する警戒心は希薄だったと言えます。

この二人の通信使の見解の違いや、朝廷の判断材料にもされた倭国からの使節が持ってきた国書に、まさか小西行長が絡んだ偽物の書状が含まれていたことまでは想像できなかったことでしょう。

しかも、朝鮮通信使が持って行った朝鮮王の書状の読み上げの際に、小西行長が手をまわした訳官によって、秀吉への「降伏文書」として偽りの読み上げがされたのではないかとの見方もされています。

それを知らなかった朝鮮通信使一行は、

秀吉は礼儀を知らない。使節団を迎えるような態度ではないと待遇の悪さに怒りを覚えたこと、持ち帰る書状が「まるで服属したかのような言葉遣いだから訂正してほしい」などの文句をつけると、翻訳上の解釈の違いだと言い切った日本側の使節代表の玄蘇に不快感を覚え、最終的に逃げ帰るように朝鮮に戻った。

と報告しています。

小西行長は、なぜ、嘘をついたのか?

1587年、対馬府中藩主の宗義智は、秀吉から李氏朝鮮を服属させるようにとの命令を受けました。

実は、この任務を与えられた前任者が任務を遂行できずに秀吉に切り殺され、それを引き継ぐ形で言い渡された宗義智は、義父になる小西行長(妻の父)に相談したことで、小西行長には、きっと娘夫婦を守りたい一心があったことでしょう。

また対馬と李氏朝鮮は商いで関りがあったことから戦にはしたくない思いや、戦になれば対馬が前哨基地として島民に大きな被害が出ることも心配されました。

小西行長自身についてもキリシタン大名であることから秀吉に先鋒として出兵させられ、先鋒としての多大な犠牲の中で自分が死ぬのではないか?と危惧していた可能性もあります。(韓国ドラマ「軍師リュ・ソンリョン」より)

そこで、小西行長と宗義智は共謀して秀吉の命に背き、何とか戦にならないように、「服属」ではなく、「親善」という名目で朝鮮王が来日して秀吉に跪くか、または通信使を派遣してほしいと、朝鮮に度々和議の交渉を申し入れています。

『懲毖録』によると、宗 義智景轍玄蘇は、秀吉の性格について話したり、鳥銃の威力を見せ、朝鮮が戦を避けたくなるように説得を何度も試みたようです。

しかし、結局、小西行長と宗義智は開戦の阻止に失敗しましたが、小西行長は戦端が開かれると、次々と城を落としながら、度々朝鮮側に対して交渉による解決を呼び掛けています。

あまりにも進軍のペースが早すぎたため恐れをなした朝鮮王宣祖は、都を捨て北上して逃げ出し、講和の話が出ても、自分が都を捨てるほどの恐怖を覚えた攻撃に対する怒りと、明との関係性から講和を受け入れることはありませんでした。

そして、朝鮮王宣祖は、明へ出兵の協力をお願いします。

その後、明の援軍が朝鮮に到着すると、小西行長は、朝鮮を抜きにして、明と講和条約を結ぼうとしましたが、両国とも和平条件は合意に至る筈も無いかけ離れたものであったため、

明側の講和担当者・沈惟敬らと小西行長は共謀し、

”秀吉には明が降伏する”と偽り、

”明には秀吉が降伏する”

と再度偽りの講和を結ぼうとしました。

それにより、壬辰倭乱(文禄の役)はいったん停戦となります。

小西行長の嘘の講和条約がバレる!

偽りの講和は、先に、明側との交渉がされ「秀吉が降伏する」との講和条約に、

・順化王の王号と金印を授与する

という内容のものでした。

これは、明の臣下になることを意味するもので、秀吉が求めていた講和条件は、

”割地”

とかけ離れた条件でした。

日本側も多くの犠牲と軍資金の投入があったので、戦利品がなければ戦に参加した大名を抑えきれません。

朝鮮の土地の南部を割地し秀吉の国として治め、大名に恩賞(土地)を渡すつもりでいたのです。

「割地が絶対条件」であることを知っていた小西行長は、秀吉に報告する段階で、国書を読み上げる西笑承兌に内容をごまかすように依頼しましたが、西笑承兌は書の内容を正しく秀吉に伝えました。

秀吉は怒り、講和は完全に破綻しました。

交渉の主導者だった行長は秀吉の強い怒りを買い死を命じられますが、西笑承兌や 前田利家、淀殿らのとりなしにより一命を救われたということです。

《秀吉が求めていた和平条件》
・明皇帝の姫を日本の天皇の后にすること
・日明両国において、官船と商舶の往来を図る
・朝鮮の領土は北四道と漢城を朝鮮国王に還す(朝鮮を割地して朝鮮南部は秀吉が統治する)
・朝鮮の王子や大臣の子を人質として差し出す

なぜ、秀吉は和平条件に

”日明両国において、官船と商舶の往来を図る”

というのを望んだのでしょうか?

明と豊臣政権の関係性の背景

室町幕府3代将軍足利義満の時代に、明との「勘合貿易」というのがありましたね。

明との国交と通商が結ばれたのは、明の3代皇帝「永楽帝」(えいらくてい)の時です。

明は室町幕府将軍の足利義満を「日本国王」と呼びましたが、それは尊称ではなく、中国の属国の王という意味でした。

日本の国王の使いが君主である明の皇帝に朝貢し、その返礼品として物品を受け取るという形式で貿易が行われたのです。

明の豊かさや皇帝の気前の良さを示すため、貢ぎ物よりも高価な返礼品が渡されたとされます。

明から持ち帰った品々は、仕入れた元値の数倍から数十倍で取り引きされることも珍しくありませんでしたので、経済効果も非常に高いことが分かります。

しかし、明は、豊臣政権を、かつて永楽帝が日本国王に冊封した足利義満の幕府を倒したものであり、その正統性を認めていなかったという背景があったため、戦国時代は勘合貿易が行われていなかったのです。(参考:「世界史の窓」より)

小西行長に与えられたリベンジ!

1597年からの丁酉《ていゆう》倭乱(慶長の役)で、小西行長は再び出兵を命じられます。

特に講和交渉における不忠義の埋め合わせのため武功を立てて罪を償うよう厳命されて朝鮮へ進攻します。

前回、壬辰倭乱(文禄の役)で日本側が苦戦した理由は、海を守る朝鮮水軍を率いる水軍統制使李舜臣の存在でした。

軍備や兵糧の断たれたことが大きく後退を強いられ、李舜臣を排除しなければ今回も上陸後に安心できないことから、上陸の前に、李舜臣対策を行ないました。

1597年、丁酉倭乱(慶長の役)の攻勢準備のために加藤清正が朝鮮へ着到することを小西行長の使者が朝鮮側に漏らしたことから、朝鮮王朝は加藤清正の上陸を狙って攻撃するように水軍統制使李舜臣に命じました。

しかし、李舜臣は、情報の出所が小西行長だったため、誘引策によるものだと疑い独断で出撃せず、王命に背いたということで李舜臣は更迭され、拷問を受けて一旦は死罪を宣告されかけました。

これまでの功績や、海を守れるのは李舜臣しかいないことを伝え、リュ・ソンリョンをはじめ、命だけは取らないように宣祖に進言をしたことで、一兵卒としての白衣従軍に降格との処分になります。

なぜ、死刑から白衣従軍になったのか?⇒「イ・スンシン死の真相!」を見る!
の方で、もっと詳しく説明しています。

李舜臣の排除に成功した小西行長の2つ目の誘引策が始まりました。

再度、小西行長から偽情報が漏らされ、李舜臣の後任の水軍統制使・元均(ウォン・ギュン)が誘引策に引っかかり後退しました。

「倭軍を撃退しろとの王命に背いた李舜臣」のこともあるうえ、李舜臣を快く思っていなかった派閥の官僚は優秀な水軍の将軍は他にもいると聞いて命じたのに、なぜ、出陣しないのか?と宣祖に責め立てられたウォン・ギュンは、水軍単独での攻撃命令を嫌がりながらも遂行した結果、漆川梁海戦(巨済島の海戦)で大敗し、

ウォン・ギュンをはじめとした数名の将軍は戦死し、朝鮮水軍はほとんど壊滅、200隻あった水軍の戦船は12隻へとなりました。

これにより、制海権は日本側に移り倭軍は易々と上陸できるようになります。

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まとめ

このように、小西行長は、国書や講和条約を自分の都合の良いように何度も偽装し、この壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の流れに影響を与えました。

小西行長は、武功を立てて罪を償うチャンスをもらい、その後、秀吉が亡くなってしまったため命を長らえましたが、

小西行長と共謀した明の 沈惟敬 については死刑となっています。

この小西行長や宗義智の偽の国書、偽の講和条約がどのように行なわれたのか?

韓国ドラマ「軍師リュ・ソンリョン」で詳しく描かれています。

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