第一次王子の乱・第二次王子の乱とは、朝鮮王国の建国後まもない頃、王子のイ・バンウォン(後の、第3代朝鮮王)が中心となって起こした2つの内乱のことを言います。
第一次王子の乱とは?
第一次王子の乱では、初代王太祖が病気で意識不明の状態の中、初代王太祖の五男イ・バンウォンのほか、イ・ソンゲの第一夫人である韓氏の王子たちが結束して、鄭道伝と重臣たちを殺害。その他にも、イ・ソンゲの第二夫人神徳王后の子息で、異母兄弟になる世子(八男:李芳碩)と七男の李芳蕃を殺害した事件のことを言います。
病気の初代王太祖が、そのまま亡くなってしまうと、八男の世子が王位に就いてしまうため、それを阻止するために、その機会を狙ったのではないかと考えられます。
この時、殺された鄭道伝と重臣たちは、世子(八男:李芳碩)を支持していました。
複数の兄弟がいる中、八男の李芳碩が世子に選ばれた理由は、
1.鄭道伝の新しい国(朝鮮王国)の主は、”民”と考え、王と王族は、政治に介入できない象徴的な地位にする予定だったため、幼い子どもの方が都合が良かった。
2.イ・ソンゲの第二夫人神徳王后が、イ・バンウォンを恐れ、「イ・バンウォンが王になると、私と子供たちが殺されてしまう!助けてほしい!」と、初代王太祖に泣きつき、神徳王后を寵愛していた太祖は、これに応じた選択をした。
3.イ・バンウォンは、建国直前、イ・ソンゲが信頼していたチョン・モンジュを勝手に暗殺してしまい、怒っていた。
4.建国に際し、多くの罪の無い人達の血を流したため、まだ子供で、騒乱に加わっていない八男の李芳碩なら、聖君として、民の信頼を集めやすくなると考えた。
また、第一夫人である韓氏の王子たちが結束して「第一次王子の乱」を起こした理由には、世子に八男の李芳碩が選ばれたことだけではなく、
1.兵権と朝廷のトップとして、すべてを掌握した鄭道伝(チョン・ドジョン)は、遼東征伐をすることを決定し、朝鮮の国に新たな陣法を考案し、その軍事訓練に王子たちも全員参加するように強制され、参加拒否をすると、軍事処罰に、地位は関係ないと、脅されたこと。
2.王子たちが所有する私兵を国に、すべて没収し、今後、国が持つ兵以外に、私兵を個別に持つことを禁止された。
等が挙げられます。
この「軍事訓練」と「私兵所有の廃止」の理由は、イ・バンウォン以外の王子も参加する大きな理由となりました。
第二次王子の乱とは?
第二次王子の乱では、第一夫人の韓氏を生母にした同腹の兄懐安君・李芳幹(太祖の四男)の反乱を、靖安君(李芳遠:イ・バンウォン)が鎮圧したという騒乱。
八男の李芳碩が亡くなり、王座に興味が無く、正妻に子どものいない次男李芳果が、第二代朝鮮王・定宗に嫌々就いており、靖安君(イ・バンウォン)が、丞相として実権を掌握していたため、四男で、第一次王子の乱でも活躍した自分にも、王位に就く権利があるのではないかと、反乱を起こしました。
その後、芳幹は生涯流刑となりました。
この情況を見ていた朝鮮王第二代定宗とその妃・定安王后は、このままではいずれ自分たちに害が及ぶことは必至であることを悟り、世弟・靖安君(芳遠)に対し譲位を申し出て、上王となりました。
こうして1400年11月に、芳遠は第3代国王(太宗)として即位しました。
そのため、朝鮮王第二代定宗の在位期間は、1398年~1400年の約2年間という短い在位で終わりました。
この第一次王子の乱・第二次王子の乱につては、こちらの記事でも、紹介しています。
>>>「朝鮮王3代目太宗は、初代王イ・ソンゲに2度も殺されかけていた!」(サイト内記事)