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社会科の教科書にも載っている 亀甲船 で戦ったという イ・スンシン の死の真相とは?

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イ・スンシン(亀甲船)
1795年に描かれた亀甲船の絵画「Wikipedia」よりーhttps://ja.wikipedia.org/wiki/亀甲船
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亀甲船を作ったイ・スンシンとは?

社会科の教科書にも載っていたイ・スンシンが造った「亀甲船覚えていますか?

豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、陸上では、あっという間に占拠したにも関わらず、水上で日本からの補給船を次々と撃破し、秀吉軍を苦戦に陥らせるほど活躍した人物が、水軍の全羅左水使イ・スンシンです。

彼は、全羅左水使に任命されると、日本からの進軍に備え、亀甲船を作りたいと申し出ましたが、当時、秀吉が本当に戦を仕掛けてくるとは思っていなかった王と朝廷は、資金不足から造船の中止を命じていました。

イ・スンシンを全羅左水使に推薦した左議政のリュ・ソンリョンだけは、開発途中の時限爆弾と亀甲船だけは、備えておきたいと考え、商人からお金を調達し、密かに建造を手伝ったそうです。

亀甲船が完成し、イ・スンシンが完成の報告と資金援助のお礼の書簡を第14代国王の宣祖宛に送ったことで発覚。

左議政リュ・ソンリョンは、宣祖に叱られますが、イ・スンシンには、資金を国王の宣祖が密かに用意してくれていたと伝えていたおかげで、宣祖の功績となるため、リュ・ソンリョンは許してもらえた・・・という経緯があったみたいです。

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第14代国王宣祖の英雄への妬み

第14代国王宣祖は、正統な王の直系ではなく、傍ら系にあたる側室の子で、しかも長男でもなく、16歳にして、いきなり玉座に座らされたこともあり、非常にコンプレックスが高く、戦時中に自分よりも民から尊敬を集める者を、異常なほどの警戒心を持ちました。

実の息子である世子(光海君)に対しても、倭国にダメージを与え、民を救済するような活躍するたびに、譲位をほのめかし、戦の最中に、何度も謝罪をさせ、王位を譲り受ける気持ちが無いことを証明させました。

イ・スンシンについても、最初は、海上の倭国の補給路を断ち、内陸の激しい動きを止めた活躍ぶりを宣祖も喜んでいましたが、そのうち、戦後は、都と民を捨てて北方に逃げた自分よりも、敵を倒し、民に生活の場や食料を提供したイ・スンシンの方が王にふさわしいのでは?

と民が言い出すことを心配するようになります。

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イ・スンシンの入獄と悲劇

倭軍が、2度目の朝鮮出兵するためには、イ・スンシンの存在が壁となっていたため、朝鮮の内情に詳しい小西行長は、常に出兵に慎重なイ・スンシンに罠をしかけ、

イ・スンシンが「この情報は、倭国の誘引策のため出兵はしない!」

と拒否すれば、朝廷と王が始末してくれるはずだからと、豊臣秀吉に進言しました。

実際に、その通り、イ・スンシンに、秀吉軍の誘引策の疑いのある場所に出陣するように王命が出されましたが、イ・スンシンは「兵を無駄死にさせたくない」と、王命に背いたことで、

「イ・スンシンは、自分が王だ!と、高慢になっているのではないか?」

「王命に背く、その行為は、謀反に値する!」

と、朝廷の一部と宣祖が怒り出し、イ・スンシンを捕らえ、牢屋に入獄しました。

イ・スンシンの処罰とは?

ところが、困ったのは、処罰の仕方でした。

謀反の罪ならば、当然、打ち首などの処刑となりますが、本来は忠臣であり、しかも国が危険に晒された時、海上を唯一守ってくれた英雄でもあります。

そのため、誰よりも民に信頼されているイ・スンシンを死罪にすれば、民の反感を買うことは、目に見えていました。

しかも、倭軍が侵攻してきたとき、再び、海上を守ることができるのは、イ・スンシンに代わるような将軍はいない状況でした。

そのため、朝廷の一部とリュ・ソンリョンは、イ・スンシンを庇い、処分はしても、命までは奪わないように進言します。

「いつか、必ず役に立つときがあるので、殺してはいけない!」と、

説得を試みました。

しかし、宣祖の決断は、イ・スンシンだけが優れた人材ではないはず・・・。

機会があれば、他の将軍でも海上を守ることが出来るのでは?

反リュ・ソンリョンの派閥による進言に心が傾きます。

 

そこで、第14代国王宣祖は、牢の中にいるイ・スンシンに、直接会いに行き、

「ここでは殺さないから、倭軍と戦って、戦場で死んでくれ!

「二度と私の目の前に現れるな!」

と、お願いしました。

何とも、勝手なお願いですね。

その第14代国王宣祖の言葉に、事情を察した忠臣のイ・スンシンは、釈放され、白衣従軍として、海上ではなく、陸軍に配属となりました。

イ・スンシンを処罰した結果

一方、その状況を「難関だったイ・スンシンを、海上警備から外してくれた!」

「宣祖こそ、日本の忠臣だ!」

と、朝鮮王宣祖の采配を、秀吉たちは大喜びし、再度、朝鮮の水軍全滅ための誘引策を仕掛けました。

全羅左水営では、今回の倭軍の船の進軍も、敵の誘引策だという意見が多い中、王命を受けたイ・スンシン後任のウォン・ギュンは海上に出征し、大敗しました。

有能な水軍の武将がいると信じイ・スンシンを排除した14代国王宣祖は大敗を激怒し、再度、ウォン・ギュンに出陣を命じました。

今度は、ウォン・ギュンも負け戦を承知の上で出征し、当初200隻あった軍船が、12隻となるなど、壊滅的な敗戦となりました。

そのため、1次侵攻の時よりも、朝鮮には不利な状況となり、日本軍が、海上の各地から、内陸へ進軍を始めます。

イ・スンシンが水軍に復帰

その時、元の地位へ復帰したかのようにイ・スンシンが全羅左水営の水軍に戻ってきました。

実は、水軍は、兵士の数も、軍船の数も、時限爆弾や武器の数も、壊滅的に失っていたため、

イ・スンシンと残った水軍兵は、陸軍に合流するように王命が出されていたのです。

しかし、イ・スンシンは、「軍船が12隻あれば、まだ、戦える!」

と、再び王命に逆らい、水軍の後方を漁船で数を強化、戦闘準備に入ります。

 

その頃、稷山での戦闘で朝明連合軍に負け低迷した倭軍は、南海岸から西海岸に水軍を移し、水軍・陸軍が合流して北進する計画を立てました。

その情報を手に入れたイ・スンシンは、

「目の前を通る倭軍を見逃せない!」

と、軍船12隻と、避難民の漁船約100隻をダミーに後ろに配置し、133隻の倭軍の船を迎え撃つ作戦を実行します。

地形や水流、暗礁を利用したイ・スンシンの作戦は成功し、約30隻(2,000人)を撃沈し、退却させることができました。

朝鮮は、制海権を取戻し、戦勢を覆すきっかけとなりました。

イ・スンシンの最期!

同時に、倭軍の陣営では、秀吉の死の知らせが届き、急遽、倭軍がみんな帰国を始めていきます。

特に、内陸まで進軍していた陸軍は、明軍に道を開けるようにお願いします。

依頼を受けた明軍の将軍が、イ・スンシンのところへ行き、大量の銀塊を見せ、見逃して帰国させてあげるように頼みますが、イ・スンシンは断ります。

第14代国王宣祖は、自分が戦場で死ぬことを望んいると知っているイ・スンシンは、

「このまま朝鮮の民を苦しめた倭軍を日本に帰すわけにはいかない!」

と、出征します。

部下を大事に思い、無駄死にはさせたくないと、王命にまで逆らって入獄したイ・スンシンが、

逃げ帰ろうとする倭軍を、「最後の一人まで逃がすな!」と

数少ない軍船で執拗に日本の軍船を追いかけまわし、敵の弾に当たり、死んでいったそうです。

明軍と合わせて146隻の軍船で、500隻近い倭軍の船に壊滅的な被害を与え、7年間の戦いを終えました。

 

後に、秀吉の朝鮮出兵の一部始終を、王の側近として見てきたリュ・ソンリョンの懲毖録(ジンビロク)によって、イ・スンシンの戦死の原因・状況などが明らかにされました。

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