サルフの戦い
サルフの戦いとは?
1619年にヌルハチが率いる後金(のちの清)が、明・朝鮮の後金討伐軍を破った戦い。
当時の背景
1618年、ヌルハチは「七大恨」と呼ばれる檄文を掲げ、明を攻めることを決定します。
ヌルハチが率いる後金(のちの清)の勢いがあり、明は、朝鮮に対し出兵を要請しました。
当時、第15代朝鮮王だった光海君は出兵を渋ったものの、先の壬辰倭乱(文禄・慶長の役)において宗主国である明に救援してもらった恩義(「再造の恩」)があったため、
断ることができず、都元帥の姜弘立と副元帥の金景瑞に1万3000人の兵力を授けて鴨緑江を越えさせました。
しかし、この時、形ばかりの出兵にして、朝鮮兵の犠牲を抑えたいと考えていた光海君は、都元帥の姜弘立に、密命として「万一の時は降伏せよ」と、固辞する姜弘立を出征させたのです。
光海君は、「再造の恩」はありながら、明と後金との間で、できるだけ中立を図ろうとしていたのです。
そのため、姜弘立は、万一の時に備え、後金の都ヘトゥアラに極秘裏に通事を送り、「朝鮮の今回の出兵は本意ではなかった」と伝えていました。
サルフの戦いで明と朝鮮軍は敗戦!
後金6万人の兵力、明軍(朝鮮などの援軍を含む)は16万(明は45万を号した)という圧倒的な数では上にも関わらず、ヌルハチの満州軍に各個撃破され、
朝鮮軍も富車(フチャ)の野で後金軍の襲撃を受け、この戦いで朝鮮軍の前衛隊は全滅しました。
包囲された本隊には、後金から降伏の誘いがあり、姜弘立はこれを受諾し後金に抑留されます。
1620年、朝鮮軍捕虜は釈放されて帰国しましたが、姜弘立と副元帥・金景瑞など10余名は帰国を許されず、その後、ヌルハチの厚遇を受けました。
姜弘立については、ヌルハチの次男ダイシャン(代善)の養女と結婚し、明の捕虜500人を下人として下賜されたほどの厚遇でした。
しかし、この間、姜弘立はこの状況を朝鮮のために利用し、何度も光海君と密書のやり取りをし、後金の事情を伝えていたのです。
このようにして光海君は明と後金に両面政策を取りやすい状況があり、何とか平和を維持していたのです。
仁祖反正・ヌルハチの死去
ところが、
1623年仁祖反正
1626年ヌルハチの死去により、八男ホンタイジ(皇太極)が即位。
という国内外の変化により、状況は、一転。
仁祖を擁立した西人派は、明に対する「再造の恩」を主張し、朝鮮の新政権は親明反後金政策を鮮明にした政策をするようになり、明将毛文龍の鉄山(李氏朝鮮の平安道鉄山沖の椵島《皮島》や身弥島)に駐兵を認めました。
これが1627年の丁卯胡乱勃発の原因となりました。
サルフの戦いを描いた韓国ドラマ
・韓国ドラマ「華政」