恵慶宮洪氏の『閑中録』について詳しく調べてみました。
『閑中録』(かんちゅうろく)とは?
『閑中録』(かんちゅうろく)は、朝鮮王朝の恵慶宮洪氏(ヘギョングン ホンシ)が記した回想録であり、自伝的要素を含む作品です。
恵慶宮洪氏は、第22代国王正祖の生母であり、さらに彼女の夫は悲劇的な運命を辿った思悼世子でした。『閑中録』は、1795年から1805年にかけて執筆され、全4巻で構成されています。
『閑中録』は、英祖が自らの息子である思悼世子に下した死の命令を軸に、恵慶宮洪氏の個人的な体験や宮中で繰り広げられた陰謀を、写実的かつ生々しく描いている点で注目されています。
当時の宮廷内部の実態や、党派争いによって分裂した貴族社会の動向を理解する上で、『閑中録』は極めて重要な歴史資料として高く評価され、今では、学校の教科書にも掲載されています。
さらに、『閑中録』は「泣血録」(きゅうけつろく)の名でも知られ、思悼世子の悲劇を明らかにし、恵慶宮洪氏の実家である豊山洪氏(洪鳳漢)の正当性を強調する目的で執筆された内容も含まれています。
恵慶宮洪氏は文学的才能に秀でており、その文章は優美で流麗と称賛されています。彼女が残した『閑中録』は、個人の悲嘆と政治的意図が交錯する記録であり、朝鮮王朝時代の宮廷文学の中でも傑出した作品として位置づけられています。
韓国ドラマ「大王の道」は『閑中録(恨中録)』が典拠!
『閑中録』は、思悼世子の妻である恵慶宮洪氏が、晩年に回顧録として執筆したもので、そのエピソードや世子嬪として支えた恵慶宮洪氏の苦労と不安の思いが、韓国ドラマ「大王の道」の劇中に度々引用されています。
ドラマを視聴していても、何て素晴らしい妻だと思えるほど、ストレスによる精神的ダメージで心が壊れそうになる世子を、傍で共感し、温かい言葉を掛け続け、優しく包み込む姿が印象的です。
しかし、この『閑中録』にさえ、政治的な意図が隠されているのではないか?という学説もあるようです。
この『閑中録』が執筆されたのが、その当時の日記ではなく、正祖が亡くなる5年前の1795年から、正祖亡き後1805年にかけて執筆したものです。
真実を知る多くの関係者が亡くなってしまっている時期とも言えます。
第1編だけは、正祖が存命中に書かれており、主に思悼世子と自分の実家の関係が良好であったことを描写し、不幸にも壬癸年に病状があったとだけ言及し、思悼世子の精神病についてはほとんど触れていません。
これらは、事実として、思悼世子は、本当に恵慶宮洪氏の父洪鳳漢を信頼していたようで、いくつかの洪鳳漢宛の直筆の手紙も残されています。
ある一枚には、第19代王粛宗の陵墓参拝に一度も一緒に連れて行ってもらったことが無い胸の内や、洪鳳漢に精神病の薬を依頼する直筆の手紙なども残されています。
そして、一転、正祖が亡くなり、純祖が即位した後に記録された第2編から第4編では、思悼世子の精神病と非行について積極的に言及しています。
その内容は、『英祖実録』とは正反対の内容が書かれているところもありました。
例えば、英祖36年7月22日、温泉浴のために温陽に行った世子は、温泉に滞在中も毎日講義を開き、学問を続け、この事実を報告された英祖は、学問に対する世子の情熱に非常に感嘆したといいます。
しかし、恵慶宮洪氏は『閑中録』に、思悼世子が温陽に向かったその年に病状がさらに悪化し、鬱火が激しくなり、病が極度に悪化し、人を識別できないほど精神が混乱していたと記録しています。
どちらかに、事実に間違いがあることになります。
さらに、韓国ドラマ「大王の道」では、この温泉浴による宮中からの外出を、世子がいよいよ謀反を起こす行動に出たと思った英祖が、世子を守る武官を少ししか付けず、
宮殿を出ると同時に、宮殿の軍備を守りの体制にし、攻めてくる世子軍に備えたという場面に描かれました。
ドラマの演出か、それとも3つ目の説もあるのかもしれません。
恵慶宮洪氏は、なぜ夫を狂気の精神病者として描写したのでしょうか?
一部の学者たちは、恵慶宮洪氏が豊山洪氏家門の冤罪を晴らすために『閑中録』を書いたと主張し、恵慶宮洪氏の父であり世子の義父である洪鳳漢が世子の死に直接関与した事実をその根拠としています。
実際、老論の領袖であった洪鳳漢は、英祖に米櫃を勧めた張本人であり、
世子が米櫃に閉じ込められた初日に、「なぜ世子を救わないのか」と大臣たちを非難した史官尹淑を処罰するように求めました。
さらに、思悼世子が死んだその日に洪鳳漢が漢江で船を浮かべて遊んでいたという野史の記録が伝えられており、
英祖が亡くなり、正祖が即位すると、実母でもある恵慶宮洪氏の実家が没落の道を歩んだのは、正祖が自分の父である思悼世子を死に追いやった外戚に対しても不満を抱いていたためだというのです。
学者たちはこの点を挙げて、恵慶宮洪氏が父洪鳳漢が世子の死に直接関与した事実を隠蔽し、すべての責任を英祖に押し付ける手段として、
『閑中録』を通じて精神病にかかった世子と息子を殺した冷酷な父王英祖を強調したと主張しています。
また、「世界大百科事典」では、嫁の嘉順宮(純祖の母)の勧めによって、党争にからんだ実家の豊山洪氏の怨憤をはらすために続編を書きつぎ全4巻となった。
とも説明されています。
『閑中録(恨中録)』を典拠として制作された韓国ドラマ「大王の道」は、前述の通り、英祖が親として非情で冷酷な印象が強く、
その行為によって、世子は、我慢を重ねながらも、徐々に、奇行を繰り返していき、最終的には心の病が酷い状態であることが描かれています。
驚悸症を発症した世子について両親に相談し、「悲しい。世子様は礼儀のある方で、学問にも取り組まれて、世子に値する立派な方になられた。だが、任申年と癸酉年に病に侵され、私と両親はとても複雑な気持ちになった。母上は、世子様の回復を願い名山や大河に、一晩中手を合わせて念仏を唱えられた。すべては、愚かな私のせいだ。両親にまで、国の将来に不安を抱かせてしまった。」
『閑中録』全4巻は、後世の人物によって集められた!
『閑中録』は確かに恵慶宮洪氏が書いたものではありますが、最初から全4巻の書物として世に広めるために書かれたのではなく、
後世の人物によって、集められたものが全4巻になったものです。
『閑中録』第1編
第1編は、1795年(正祖19)61歳、還暦の時、実家の甥ホン・スヨンの勧めで書き始めました。自身の誕生から世子嬪となったこと、その後のあわせて50年の宮中生活のことなどが書かれています。この時は、思悼世子の悲劇については、とても語ることができないとしています。
また、父・叔父・甥に起きた災難や、自身の孤独感なども記載されており、華城行宮での自身の還暦の遠賀の話で終わっています。この第1編は比較的ゆったりとした文で書かれています。
『閑中録』第2編
第2編は、1801年(純祖1)67歳、カトリック教徒に対する大粛清『辛酉迫害』に巻き込まれて賜死となった弟・洪楽任(ホン・ナギム、※済州島に追放され、その年の5月に亡くなる。)も含め、没落した実家を嘆き綴りました。書き始めは小姑・和緩翁主(ファワンオンジュ)について書かれており、初期にイ・サンが母恵慶宮洪氏を嫌ったのは和緩翁主のせいだと記述しています。
また、叔父・洪麟漢(ホン・イナン)が罪に問われたのは、洪国栄(ホン・グギョン)の策略である旨も記述しています。最後には弟の汚名返上を祈願して締めくくっています。
◆『辛酉迫害』についての詳細は、こちらの記事をご覧ください。
『閑中録』第3編
第3編は、1802年(純祖2)68歳、孫の純祖に宛て、思悼世子の死と関連して実家は無実の罪を着せられた事をあきらかにするために綴られました。主題は第2編と同様です。
イ・サンの孝心の大きさを説明し、晩年には実家に対する処分を悔いて、甲子(1804)年には処分を解くと口約束していたことを、具体的なやり取りを持って記述しています。
『閑中録』第4編
第4編は、1805年(純祖5)71歳、純祖の生母・嘉順宮(カスングン) 綏嬪 朴氏(スビン パクシ)の要請で純祖に見せるために記述しました。この第4編ではじめて思悼世子の死について具体的に語られます。また、自身の境遇についても語られています。
思悼世子に先王・景宗の内人達を付けたことにより、英祖は必然的に東宮への足が遠のいた上、英祖が寵愛していた娘・和平翁主(ファピョンオンジュ)が死に、世子に無関心となり、世子は学問もせず武芸や遊びに傾倒しました。
代理聴政も行ったものの、ことごとく英祖と対立することとなり、世子は英祖ヘの恐れから恐怖症や強迫性障害にかかり、突発的に人を殺し放蕩三昧な生活を送ります。ついに1762年(英祖38)5月、羅景彦(ナ・ギョンオン)の告変と世子の生母・ 暎嬪李氏(ヨンビン)の勧めで、英祖は世子を米びつに幽閉させ、9日後に絶命させたと書かれています。
また、英祖が跡継ぎを処分したことはやむを得ないことであったし、米びつを使用するという思いつきは英祖自身がしたことであって、実家の父洪鳳漢(ホン・ボンハン)が主張したわけではないと綴っています。
韓国ドラマ「大王の道」では『閑中録』の内容を詳細に再現!
韓国ドラマ「大王の道」では、これらの『閑中録』の内容を詳細に再現してドラマ化していますので、 英祖が非情で冷酷な父であり、世子を追い詰めた印象が強いドラマとなっています。
また、このドラマでは、洪鳳漢は職を一時的に罷免されていたので、「世子の米櫃事件」に関与していない!と描かれました。
韓国ドラマ「大王の道」で描かれた様子や、描かれていない『閑中録』の内容の一部には、次のような記述(要約)があります。
▶▶世子が成長する間、英祖が世子の過ちを厳しく叱ることが繰り返された。世子は英祖に叱られるのを恐れていつもびくびくしており、英祖に叱られて帰ってくると服をうまく着替えられず、依帯病(帯状疱疹)の症状を見せたという。また、まるで父に反抗するかのように頻繁に宮殿を抜け出し、尼僧や妓女と付き合い、遊興費が足りなくなると南大門の商人から強制的にお金を借りることまでした。また、鬱火が高まると無闇に宮女や内侍を殺し、自分の息子を産んだ敬嬪朴氏の首を切るなど、狂気的な殺人行為まで行った。 |
この内容については、具体的に、殺された宮女や内侍は、推定50人~100人近くという説もあります。
商人から強制的にお金を借りたことや、尼僧を宮殿に呼び入れたり、妓女と遊興したことなども『羅景彦』の告発文10か条に書かれていた内容になります。
「世子の米櫃事件」の際については、
世子は地面に伏して哀願し、許しを求めたが、英祖の心は容易に解けなかった。王命に反して、自決しなかった世子を庶人に廃し、米櫃に閉じ込める命令を下した。米櫃に閉じ込められた世子は爪がすべて剥がれるほど米櫃を引っ掻き、助けを求めて泣き叫び、当時世孫であった正祖も父を助けてほしいと泣き叫んだが、英祖は何事もなかったかのように政務を取り、息子を放置した。そして8日後、ついに死を迎えた。 |
果たして、『閑中録』は、李朝の宮廷小説の一つとして見るのか、それとも、重要な歴史的資料となるのかは、近年、意見は、分かれています。