韓国ドラマ「武神」の概要
韓国ドラマ「武神」の演出・脚本・視聴率など
【話数】全56話
【演出】キム・ジンミン/代表作「犬とオオカミの時間」「甘い人生」「シンドン〜高麗中興の功臣〜」「傲慢と偏見」「結婚契約」「カノジョは嘘を愛しすぎてる」「無法弁護士~最高のパートナー~」
【脚本】イ・ファンギョン/代表作「龍の涙」「太祖王建」「淵蓋蘇文-ヨンゲソムン-」「光宗大王〜帝国の朝〜」
【制作】MBC 2012年放送 ※「八万大蔵経」1000年特別企画ドラマ
【最高視聴率】14.9%
【公式サイト(登場人物相関図など)】http://www.bushin-d.jp/
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韓国ドラマ「武神」主なキャストと代表作
俳優・女優(役名) | 過去の出演ドラマ・映画 |
★故キム・ジュヒョク (キム・ジュン 《金俊》役) 奴婢から第9代武臣政権の執権者へ |
・「ホジュン~伝説の心医~」 ・「プラハの恋人」 ・映画「王の預言書」 ・映画「毒戦 BELIEVER」 ・映画「荊棘の秘密」 |
★キム・ギュリ (チェ・ソンイ役) チェ・ウの長女 |
・「王の顔」 ・「ずる賢いバツイチの恋」 ・「恋人」 |
★チョン・ボソク (チェ・ウ 《崔瑀》役) 崔氏政権の2代目当主 |
・「大祚榮」 ・「私の心が聞こえる?」 ・「火の女神ジョンイ」 ・「胸部外科~心臓を盗んだ医師たち~」 |
★パク・サンミン (チェ・ヤンベク《崔良伯》役) 奴婢出身でキム・ジュンの友でありライバル |
・「大王世宗」 ・「ゾンビ探偵」 ・「スキャンダル」 |
★ホン・アルム (ウォラ/アンシムの一人二役) キム・ジュンの幼馴染のウォラ/妻のアンシム役 |
・「鳴かない鳥」 ・「テバク」 ・「炎の中へ」 ・「夢みるサムセン」 |
★イ・ジュヒョン (キム・ヤクソン役) チェ・ソンイの夫でチェ・ウの後継者候補 |
・「幻の王女チャミョンゴ」 ・「淵蓋蘇文-ヨンゲソムン-」 |
韓国ドラマ「武神」あらすじ
舞台は13世紀の高麗。
王と文臣貴族による朝廷は権力を失い、武力を背景とした武臣が政権の座に就いて約50年。
権力闘争に勝利し武臣政権の頂点に立ったチェ・チュンホンは、自らの権力基盤である都房(トバン)を率いて国政を牛耳っていた。
そんな中、都房の暴政に不満を抱いた僧侶たちが反乱を起こしたのをきっかけに、全国の寺院は大々的な弾圧を受けることになる。
赤ん坊の頃に寺に引き取られ、僧侶見習いのムサンとして育てられたキム・ジュンは、チェ・ヤンベクの都房親衛隊に逮捕され、チェ・チュンホンの屋敷から逃亡した奴婢の子であると発覚してしまう。
チェ・チュンホンの孫娘ソンイの助言で処刑を免れたキム・ジュンは、撃毬(キョック)の腕前によって、チェ・チュンホンの長男でソンイの父であるチェ・ウの目にとまり、家臣として取り立てられる。
折しも北方で大帝国を築いたモンゴルが高麗を侵略する中、武臣政権を継いだチェ・ウの信任を得て、側近として活躍するキム・ジュン。
やがてキム・ジュンは、世襲の崔(チェ)氏政権を倒して、武臣政権の頂点に立つ。
※ストーリー引用元:「Amazon」より
鎌倉時代の元寇の戦いは、数十年早く起こっていたかも?
元寇の戦いとは?
日本の歴史で、鎌倉時代に起きた「元寇の戦い」は、1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および南宋と高麗によって、2度に渡って日本侵攻がありました。
2度目の弘安の役においては、日本へ派遣された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊であったと言います。
この出来事について、日本の歴史の教科書では、ある日突然の「元寇の襲来」のように学習した記憶がありますが、まさか、日本に襲来する前、こんなに長い戦いが朝鮮半島で行われていたとは驚きでした。
日本の学校の歴史の教科書には載っていない「元寇の戦いが起こる
」とも言えます。この韓国ドラマ「武神」を視聴すると、「元寇の襲来」の時代背景に納得するものがあることでしょう。
まさに、この時、高麗が蒙古に勝っていれば、蒙古は、日本に来ることが不可能だったのです。
そうなると、元寇の戦いも無ければ、鎌倉幕府の存続も歴史的に違う流れがあったかもしれません。
《蒙古襲来!》蒙古は川や海が苦手!なぜ海を渡れた?
蒙古は、遊牧民族であり、平原を馬で駆ける部族なため、陸地戦には強いですが、水上戦は苦手としています。
高麗との戦では、高麗王のいる江華島へ行くための川1つ渡れず、何度も撤退を繰り返し、戦を長期戦にすることしかできなかったということがありました。
それなのに、なぜ? 海を渡り、日本までやってくることができたのか?
それを、教えてくれたのが、この韓国ドラマ「武神」と言えます。
この戦いで、もしも、高麗が蒙古に勝っていたならば・・・。
または、この金俊(キム・ジュン)が早く政権を握ったり、もっと長生きして権力を発揮して蒙古に勝っていたならば・・・。
日本の歴史の一部分(蒙古襲来)さえ、変わっていたのかもしれません。
このドラマ「武神」を見て、そんな考えさえよぎる歴史ドラマです。
高麗は蒙古に跪いたことで、水上戦が得意な技術を、蒙古のために献上しなければいけなくなったのです。
そして、跪くまでに40年掛かった歴史の中に、奴婢から最高権力者に上り詰めた金俊(キム・ジュン)の活躍があったのです。
金俊(キム・ジュン)は奴婢の身分と言っても、お寺で育ったため四書六経、孫氏兵法、貞観政要などを読破しており、武術と才知に富み、最高権力者であるチェ・ウによってその能力を見いだされ、重要な役職を任されるようになります。
誰よりも国を守りたいという意思と勇猛さ、気概、忠誠心があり、蒙古に跪くことを40年に渡り阻止することに貢献したのです。
韓国ドラマ「武神」視聴した感想・見どころ
「八万大蔵経」1000年企画ドラマ
この韓国ドラマ「武神」は、「八万大蔵経」の大蔵経制作開始(1011年)から1000年経ったことを記念して2012年に制作・放送されているため、
ドラマの中で、現存する8万枚以上もの版木からなる“八万大蔵経”が、どのような状況で作られることになり、どのくらい苦労して作成されてきたのか。
また、仏教が、人々の心の支えとして、どのくらい重要なものであったのか?
など、細かく説明が入ります。
また、1011年に契丹の侵攻に苦しめられていた時に作られた初雕大蔵経が、1232年、モンゴルの侵入の際に焼失してしまう場面があり、僧侶が大蔵経と一緒に命を落とすような場面が印象的に描かれています。
度重なる異民族の侵攻から仏の力によって国家を守るシンボルともいえる初雕大蔵経を焼失することで、人々の戦う気力を失っていきます。
実在する韓国歴史人物キム・ジュンを描いた韓国ドラマ「武神」見どころ
史実を忠実に描きながらも、歴史書の行間を埋める巧みなストーリーラインに定評がある脚本家イ・ファンギョンならではの見応えのある歴史大作史劇になっています。
撮影にあたり、しっかりした時代考証をし、総製作費250 億ウォンの壮大なスケールで製作されました。
戦の城攻めはもちろん、撃毬(キョック)の場面は、韓国版「グラディエーター」と評されるほど、戦いの場面は目が釘付けになるほどの迫力があります。
最高視聴率14%を記録。
主役の故キム・ジュヒョクは、生前、この撮影が非常に大変で「二度と時代劇はやりたくない!」とコメントしていました。(※実際には、その後も時代劇を演じています。)
大柄な体格で、まさに武人にふさわしいような迫力ある動きをします。特に、撃毬(キョック)の戦いの場面で、何度も危険なアクションを見せ場として演じています。
戦ばかりでなく、金俊(キム・ジュン)の恋愛ストーリーをはじめ、実在する数人の勇敢な武将、武人政権による政治の失敗など、
史実に基づくストーリーを織り交ぜながら、キム・ジュンのサクセスストーリーが展開します。
韓国ドラマ「武神」《ネタバレ》
韓流ドラマ「武神」☆元寇の戦い直前の高麗の悲惨な40年間の始まり
舞台は13世紀ー。高麗時代には、武人が王から政権を任せられていた時代があります。(正確に言えば、武人が武力で政権を奪いました。)
その最高権力者4代目となるチェ・チュンホンが死ぬ少し前から、この物語は始まります。
冒頭は、奴婢の過酷な扱われ方や暮らしぶりを描いたり、最高権力者チュンホンが死を目前に、実子である兄弟2人が、次の最高権力者の跡継ぎ騒動を中心に展開していきます。
また、高麗時代は仏教が盛んな国で、心の支えとなっていた存在であった背景や、僧侶も武芸を極め、時には、国を守る国境の戦に駆り出されたり、
都房の暴政に不満を抱いた僧侶たちが反乱を起こしたこと、それをきっかけに、全国の寺院は大々的な弾圧を受けたことなども、ストーリーに描かれています。
最高権力者チェ家の率いる都房の奴婢の子供になるキム・ジュンは、赤ん坊の頃に寺に引き取られ、僧侶見習いのムサン(僧名)として育てられていました。
しかし、成人後、チェ・ヤンベクの都房親衛隊に逮捕され、チェ・チュンホンの屋敷から逃亡した奴婢の子であると発覚しますが、チェ・チュンホンの孫娘ソンイの助言で処刑を免れたキム・ジュンは、撃毬(キョック)の腕前によって、チェ・チュンホンの長男でソンイの父であるチェ・ウの目にとまり、家臣として取り立てられます。
そんな中、世界征服を企む蒙古(モンゴル民族)が高麗を狙い、徐々に近づき始めます。
後継者チェ・ウの武臣政権と蒙古侵攻の始まり
チェ・チュンホンの死後、長男のチェ・ウが武臣政権を継ぎ、さらに、都房の権力が高まる中、蒙古とは和親により兄弟関係を築き、使者に莫大な貢物を要求され困惑するところから、段々と両国の関係が悪化し始めます。
十数年後、チンギス・カンは死にましたが、息子が跡継ぎとなって、西域や金の征服はほぼ成功したころ、いよいよ、高麗にも、蒙古の大軍が押し寄せてきます。蒙古の使者が高麗から帰る道中、何者かに殺されたことを口実に、高麗の謝罪や蒙古の臣下の国であることを認めさせるための遠征軍でした。
しかし、その頃、天災や日照りで食糧難が続いていた高麗は、国境を守る城に援軍を送る力も衰えていました。
蒙古の大軍は、国境近くの城を墜とす軍と、開京(都)へ進軍する二手に分かれ、都へ向かった軍は凄まじい勢いで開京(都)まで進軍していきました。高麗軍は、進軍を止めることができないほど、落ちぶれていたことも進軍を容易にさせた原因となりました。
劣勢の高麗
蒙古軍が、開京(都)を囲むように到着した際、降伏を促すためには「開京(都)から見える高麗国最大の規模の興王寺(フンワンサ)を燃やしてしまえば、すぐにでも意気消沈しますよ!」と、蒙古に寝返った元高麗の地方役人ホン・ボグォンが提案します。その通り、高麗は、すぐに、使者を送り和睦をお願いしました。
そのころ、一方では、国境近くの城では、たった2,500人から5000人の兵で、数万の蒙古軍に対抗しなければならず、1日で投降する城もあれば、10日以上死守する城もありましたが、多勢に無勢、到底勝てることはできず、都が備えるための時間を稼ぐことしかできませんでした。
この場面では、投降して蒙古の言いなりになる城主と、死を選び、自ら兵達の妻子を皆殺しにしたうえで守城戦を止め、蒙古軍へ突入して決死の戦いに臨んで死に至った城主などの生き様も描かれています。
そんな不利な条件にもかかわらず、少人数でも蒙古に最後まで城を明け渡さなかった武将がいました。
それが、亀州城のキム・ジョンソン将軍と慈州城のチェ・チュンミョン将軍という歴史に残る勇猛な武将です。およそ5000人と言われる兵で数万の蒙古軍にもダメージを与え続けながら小さな城で6か月以上も対峙しました。キム・ジョンソンは、時には、たった20名の精鋭兵で数万の蒙古軍を撤退させた記録も残るほど、勇猛な活躍をした実在の武将だそうです。
都を取り囲まれ、和親条約を建前に敗北同然の降伏することを決定しても、この2人の将軍は「まだ戦える!城主が城を明け渡すなど絶対に出来ない!」と城の扉を頑なに開けることはなく、国からの命令を受け入れ拒否をして、城を守り続けました。
このキム・ジョンソン役をやった俳優キム・チョルギは、この場面を、演じるではなく、本当にお城を守る武将そのものの迫力と気概を見せ、悔しさを露わにしながら城門を開ける場面は、感動的なシーンとなりました。
最高権力者チェ・ウの策略
戦後、モンゴルは、莫大な貢物の要求と、高麗のあちこちに行政監督官のダルガチを配置し、国境線の外まで軍隊を下げました。
最高権力者のチェ・ウは、自分の周囲には、策士になれる部下がおらず、後継者と考えていた娘婿ですら平和主義で、武力より外交でこの難を乗り切る考えしかなく、貢物の負担は民を一層苦しめ、役人はモンゴル民族のダルガチに殴り殺されることもあれば、王室や高官の子息1,000人を送るように!など、平和的な外交ではなく、国の屈辱的な敗北同然の扱いに、頭を悩ませていました。キム・ジョンソンやチェ・チュンミョンのような武将がもっとたくさんいれば・・・と考えてもどうにもなりません。
そこで、チェ・ウは、国境で戦っていたキム・ジュンを、自分の元に呼び寄せ、そばで働かせることにしました。キム・ジュンの武芸が達者なこと、そして、奴婢でありながら、兵法や中原(中国大陸)の史書を勉強しており、以前にも、自分がその知略で後継者争いの時に助けられたことがあったからです。また、チェ・ウに対して、大きな忠誠心を抱いており、今の自分の部下に出来ない策略を手助けしてくれることを期待していたのです。
その期待に応え、キム・ジュンは、チェ・ウの「この難局をどう乗り切ればいいと思うか?」という問いに、
「勝利が難しければ、引き分けに持ち込めばいい!その代わり、閤下(=チェ・ウ)は、歴史に最悪な権力者として名を残す覚悟が要ります。民も数十年、数百年、苦しませることになるかもしれない。そして、モンゴル民族は、水が苦手なので、どこかの島に遷都するといいのでは?」と、応えました。
江華島に遷都
チェ・ウは、完全な敗北よりは、引き分けにし、国と王室を守るため、その提案を受け入れました。こうして、江華島に遷都し、勝ち目のない長い戦いと国の困窮を強いられることにー。
江華島に遷都を決め、その情報を蒙古に漏らさないために、チェ・ウは、キム・ジュンに「各地方のダルガチ(蒙古の行政監督官を慰労したいと偽って1か所に集めて、全員殺せ!」と命じます。
しかし、その役割分担をしていたチェ・ヤンベクは、手柄を上げて、蒙古に寝返ったホン・ボグォンを自分で殺したいという気持ちが先に立ち、計画を勝手に変更して約束の場所に向かうダルガチとホン・ボグォンの一行を襲い、ホン・ボグォンを逃がしてしまうという大失敗をしてしまいました。
そのため、情報は、すぐに蒙古へ漏れてしまうため、江華島への遷都は、島での王宮などの準備が何も出来ぬまま、慌ただしく移り、遷都とは言い難い生活をしばらく強いられることになります。この時、王ですら、雨漏りのある役場に寝泊まりをしたというのですから、いかに急いで江華島へ行ったのかなど、この慌ただしい様子は、ドラマの脚色ではなく史実に残る話だというナレーションなども入ります。
蒙古によって、大蔵経に火を放たれる!
江華島への遷都を「裏切り」と見なした蒙古軍は、本土を焼き尽くしながら「江華島」から戻ってくるように脅しましたが、当然、聞く耳は持ちません。
また、ホン・ボグォンは、「今度は、大蔵経を燃やしてはどうでしょうか?」と、蒙古に提案します。
大蔵経に火を放たれる場面では、蒙古軍は、燃やす前に、大蔵経の倉庫から出るよう促しましたが、
その時、僧たちがお経を唱えながら、燃やされる大蔵経とともに焼身供養(=己の身を焼き、仏に捧げること)を遂げた僧がいたことが描かれています。
その結果、「大蔵経の焼失」という大きな損失で、誰もが落胆しました。
この時、キム・ジュンも、自分が自ら少ない兵を伴い阻止しようとしましたが、力及ばず、自らも死を彷徨うほどの大怪我をしてしまいました。
ところが、この「大蔵経の焼失」と同じ頃、遠く離れた場所にいた蒙古軍の総司令官が、少人数の僧兵に暗殺されてしまうという事件も同時に発生します。
残された蒙古の将軍たちは、「大蔵経の焼失」と「総司令官の僧兵による暗殺」が同時に起きたことに、「仏の罰があたったのでは・・・」と、不安が高まり、持ち去られた「総司令官の首」を返してくれたら、捕虜や奴婢にするため捕まえていた民などを解放して撤退することを約束し、蒙古の二次侵攻はあっけなく終結しました。
キム・ジュンの免賤!
キム・ジュンが死の淵から目覚めたとき、任務に失敗にもかかわらずチェ・ウは、免賤(奴隷の身分を解放)し、官職に付けてくれるという宣旨が届けられました。キム・ジュンは、自分だけ昇進するわけにはいかないと、「自分の上に立つ奴婢の身分の先輩イ・ゴンジュやチェ・ヤンベクも同時に昇進でなければ受け取らない」と、拒否をします。
チェ・ウは、キム・ジュンの要求通り二人も免賤してやり、怒るどころか「そんな性格を知ってわざとそうしてやったのだ。これで、あいつがみんなの上に立った時の貸しを作らせてあげたのだ。」と、すでに、キム・ジュンが出世し皆の上に立つ時のことを考えていたのです。
キム・ヤクソンの謀反と死刑!
怪我も治り、チェ・ウの下に戻ってきたキム・ジュンは、官職をもらいチェ・ウの側近となります。一方で、後継者候補のキム・ヤクソンは、平和的な主張しかしないため、だんだんと会議の席で孤立し、欠席をして酒に溺れる生活を始めます。
キム・ジュンという存在は、結婚以前からキム・ヤクソンの妻の想い人であったこともヤクソンの心に重くのしかかっていました。
ヤクソンの心境や立場を深く知らない高麗王第23代高宗は、「キム・ヤクソンは未来の最高権力者で、優しい人柄で、王室に理解があるから」と、キム・ヤクソンの娘と太子の結婚話を持ち掛けます。
王室の外戚となったキム・ヤクソンの下には、権力を求める輩が集まってくるようになり、目障りなキム・ジュンを排除してあげようとたくらみます。
キム・ジュンに好意を寄せているキム・ヤクソンの妻ソンイは、夫のヤクソンに謀反の罪を被せ、キム・ジュンを助けようとします。
しかし、状況は大変複雑なことになっており、ヤクソンの死を望む者がほかにもいたのです。
キム・ヤクソンを殺し、娘のチェ・ソンイとキム・ジュンを結婚させて後継者にしようとたくらんでいたチェ・ウの謀事も重なり、多くの人が、ヤクソンの無実を知りながら、謀反の罪で死に至らせました。
その後、真実を知らず、無実のキム・ヤクソンの死に不信を抱いたキム・ジュンの調査によって、自分のために、すべて起きていたことだということを、自らが世間に明るみにしてしまいます。
そのため、チェ・ウは、娘のチェ・ソンイに、処刑を言い渡し、毒を送らなければならなくなってしまいました。それは、最高権力者として「人や立場によって罰に差をつけない」という信念に基づくもので、秩序を保つためのことでした。
こうして、キム・ジュンを娘婿として後継者にできなくなってしまったチェ・ウは、妓生に産ませた二人の息子に後継者を考えます。
失敗した最高権力者の後継者選び!
昔から素行が悪く、処刑すら考えたことのある無知でならず者の息子たち。
そんな無作法なものを最高権力者の後継ぎにしても、キム・ジュンを後継人として支えさせれば、どうにかなるかもー。
そう考えたチェ・ウは、キム・ジュンに息子のどちらかを選んで来い!と、密命を下します。
兄の萬宗の方は、キム・ジュンの婚約者を自殺へ追い込んだ過去があり、萬宗本人もその気持ちがなかったため、弟の萬全(後のチェ・ハン)に決め、江華島へ連れて帰ります。その後、兄萬宗は、チェ・ウの密命により殺されてしまいます。
チェ・ウの死後、最高権力者となったチェ・ハンは、キム・ジュンに政治をすべて任せて、自分は遊び惚けてやりたい放題に振る舞います。
そのうえ、自分に逆らう人は殺し、今まで、自分を見下していた人達への復讐、自分の立場を脅かしかねない人たちの粛清など、多くの人たちを次々と殺めていきました。
その中には、チェ・ウの後妻、義理の息子、甥にあたるチェ・ソンイとキム・ヤクソンの息子、高麗の英雄でありキム・ヤクソンの弟のキム・ジョンソン大将軍、反乱を企てようとした大勢の兵士、かつてはチェ・ハンの処刑を取り下げるように尽力してくれた叔父なども含まれていました。
その処刑を命じられたのは、チェ・ハンの親衛隊長となっていたチェ・ヤンベクです。
ヤンベクもやり過ぎでは?と心の中で思いながらも、閤下(=最高権力者の呼称)の命令に逆らうことは、逆賊のすること!と言い聞かせながら、どんな命令にも従っていきます。
ヤンベクは、何度も、
「真の忠臣とは何か?」
嫌な処刑の仕事を命じられるたび、繰り返し考えますが、
学がなく、字も読めないヤンベクが出した答えは、自分が奴軍(奴婢で構成された軍隊)に入れてもらったとき、「命がけで、主君を守ること!それが、忠誠を誓うことだ!」と教えられたから、たとえ、主君が誤った判断をしても「主君を守り、命令に従うこと。それこそが、忠誠を尽くすことだ!」と、考えるようになり、チェ・ハンの横暴な命令を、すべて実行し、キム・ジュンと敵対関係になっていきます。
王政復古により、最高責任者となるキム・ジュン!
蒙古襲来だけでも、国が大変な状況の中、この事態に、ついに、キム・ジュンは、チェ・ハンの暗殺を実行し、王政復古を考えます。
そしてチェ・ハンの毒殺後、すぐに、息子のチェ・ウィが後を継ぎますが、王政復古の言葉に王室や王室寄りの官僚たちは皆喜んで協力し、王室のためという大義のもと、キム・ジュンの先導で革命が起きました。
チェ・ハンの息子で閤下のチェ・ウィとその側近を除き、親衛隊の兵たちも、皆、キム・ジュン側に投降をし、最後まで、チェ・ハンの息子チェ・ウィを守り続けたチェ・ヤンベクは、キム・ジュンと1対1の戦いの勝負をして、死に至ります。
チェ氏幕府を閉じ、王室に大きな貢献をしたキム・ジュンは、改めて、武臣の最高責任者となり、政治の中心となる役目を与えられます。
すべては、キム・ジュンの双肩にかかっているため、今まで以上に、蒙古と戦う姿勢を独断で宣言するなど、強硬に戦闘体制を整え、官僚たちにも威圧感を出し始めるキム・ジュンに皆が不満を露にします。
そんな折、30年間以上の長い戦いに疲れ、国中が疲弊し、蒙古に取り入る役人や民、蒙古の民族衣装になる人たちが増えてきたことから、太子が陛下に代わり蒙古へ入朝する決意を固めました。
そのことを不服に思っていたキム・ジュンは、太子が蒙古へ出かけている間に高麗王第23代高宗が死去したため、親蒙家の太子が帰る前に、太孫(ソンイとヤクソンの太子に嫁いだ娘の息子)を王位に就けようと考えますが、亡き高麗王高宗の遺言状の存在により、太子が帰国後、王位に就きました。
蒙古では、次期国王として太子が土下座して挨拶をしたのを受け、蒙古のクビライ・ハン(当時まだ先帝が亡くなった直後で、弟と後継者争いの最中)は大変喜び、王室に協力して、政界からキム・ジュンをはじめとした武力派の排除を企てます。
それにより、太子の入朝の成果として、蒙古軍が撤退し、奴隷として連れていかれていた高麗の民が全員返還され、やっと、平和への復興を始められる!
誰しもが、この事態を待ち望んでいたようかのように喜びました。
孤立するキム・ジュンが、最高権力者となる!
そのことが、戦を続け、蒙古に対抗としようするキム・ジュン達の考えは間違っている!
という国民の反感を高め、キム・ジュンを孤立させ、武臣の力を弱体化させようという狙いがあったのです。
その蒙古の狙い通り、キム・ジュンの兄貴分や義理の息子たちまでも、王室寄りの立場となり、キム・ジュンを説得しますが、キム・ジュンは、「必ずまた、蒙古軍が攻めてくるから、戦闘解除はできない!」と、孤軍奮闘し、いつの間にか、孤立していきます。
そんな時、蒙古でクビライ・ハンが第5代皇帝になり、改めて高麗王として元宗に入朝の催促がきます。
高麗王元宗の不在中に、キム・ジュンが反乱を起こさぬように、また戦を諦め和睦に考えを改めてくれることを望んで、キム・ジュンに爵位を授け、チェ・ウと同じ最高権力者となる官職までも与えました。
これで、文臣・武臣のすべての頂点に立ったのです。
ついに、奴婢出身の最高権力者となったキム・ジュン!
その昇進の祝いの宴席で、またもや、
「陛下の入朝は認めない!
たとえ、国が滅んでも、国は売らない!
屈すれば、高麗の魂さえも消されてしまう!
絶対に蒙古との和睦には応じない!
これからも江華島で戦い続ける!」
と宣言します。
最高権力者キム・ジュンと高麗王第24代元宗との溝が深まる!
その様子に、ついに、高麗王第24代元宗は、キム・ジュンを皇宮に呼び出し、高麗王元宗自らがキム・ジュンに土下座して、蒙古入朝を認めてほしいと懇願しました。
その姿に、認めざるを得なかったキム・ジュンは、行けば自分たちが間違いだったと分かるだろう!と、考えていました。
そうして、高麗王第24代元宗の蒙古入朝が行われたことで得たものは、
“南宋征伐と日本へ高麗の兵を送る”
を命じられたことでした。
酒宴の席で、蒙古の陛下(クビライ・ハン)の側近は、「今、高麗の兵士は何人いる?」と、高麗王に尋ねると、
日本征伐に高麗の兵が駆り出されることを心配した高麗王の側近イ・ジャンヨンは、「(戦により高麗は焼き尽くされたことで、)1万人しかいない。」と少なく答えたところ、
「1万の兵と、1万人分の兵糧」などを要求し、「南宋征伐と日本征服を手伝うように!」と命じられます。
高麗王と官僚イ・ジャンヨンは、このくらいは仕方ないがないと思っていましたが、キム・ジュンをはじめ、武将たちは、
「高麗王がひざまずくことは、国がひざまずくこと。すべてを差し出されるためにいかれたのですか?」
「蒙古行きを断行して得た利益とは?」
「蒙古と戦をしなくても終戦ではない。蒙古のために高麗の民の血を他国で流し、我々の食料が奪われ、どこが今よりマシなのか?」
と朝廷会議で、陛下や官僚に向かって怒鳴り上げたのです。
蒙古から高麗への命令書
そうして、後日、改めて、蒙古の使者が陛下(クビライ・ハン)からの命令を高麗朝廷へ告げにやってきました。
《命令書の内容》
1. 江華島を出て、開京へ遷都すること
2. 高麗の戸籍を調査し、報告すること
3. 南宋征伐に必要な1万名の兵を用意すること
4. 1万名の兵が食べる兵糧を準備すること
5. 日本征伐のための軍船=兵と軍需物資を運ぶ1千隻の船を建造せよ。
また、その一部には、3千石の兵糧を積める大きさにすること。
6. 日本征伐に先立ち、高麗が日本に降伏を勧めること。
7. 蒙古の使者と一緒に行く使者を、高麗からも用意すること
というものでした。
また、これまで、約束を守らなかった経緯や、ダルガチを皆殺しにして江華島に遷都した経緯があるため、これらの命令をきちんと監督するため、蒙古の名だたる武将をダルガチとして、各地に派遣し監視する!
などが伝えられました。
無謀な要求
ちなみに、
1石(こく)というのは米の量の単位で、大人も子供も男も女もすべて平均して、1人の人間が1年間に食べる米の量をいいます。現在の重さで言うと約150キロです。
このことからも分かるように、3000人の兵士を1年間食べさせられるだけの米の量が、3千石ということです。
1万人以上の兵が、一年間は食に困らないような米の量を、国中が戦で荒れ果てた焼け野原の高麗に用意させ、日本征伐に協力させようしたことが分かります。
この当時の様子として、キム・ジュン宅でも、米の粥がお客に出せないほど食料難で、国民のほか、高官ですら食べるものがなくて困っていた時代に無理難題を要求されたので、相当な負担命令だったということになります。
最高権力者キム・ジュンの暗殺計画浮上!
しかし、しばらくは、キム・ジュンの指示で要求をのむふりをしながら、
「準備が遅れている・・・」と言い訳をしてやり過ごしていたようですが、
モンゴル帝国の第5代皇帝であり将来元王朝の初代皇帝となるクビライ・ハンは、これに立腹し、キム・ジュンの入朝を命じます。
入朝=処刑は、誰もが予測できる状況だったので、それもまた拒んでいると、蒙古との関係を壊したくない高麗王と官僚たちは、キム・ジュンの暗殺を企みます。
同時に、キム・ジュンとその側近たちも、高麗王と側近の官僚イ・ジャンヨン、そして、蒙古の使者などもまとめて殺す革命の準備を始めます。
すでに、お互いが共存できない状態で、どちらかが、死ぬー。
そんな空気をお互いで感じながら、計画を練りました。
暗殺計画の実行!
先に、計画を実行したのは、高麗王側でしたが、キム・ジュンは、呼び出しを怪しんで、皇宮の宴会に現れることはありませんでした。
その後、キム・ジュン達の革命の実行日、高麗王が倒れ重篤なため、譲位をしたい!と、キム・ジュンを皇宮へ再度呼び出します。
皇宮は、日常から武器を持ち込めず、護衛の部下も一緒に入れないので武芸に達者なキム・ジュンの暗殺には好都合な場所でした。それを知りながら・・・
キム・ジュンは、自分の天命は終わったー。
という覚悟で皇宮へ、一人で入宮し、内官たちと、自分を父として慕ってきた息子同然のイム・ヨンによって暗殺されました。
(韓国ドラマ「武神」は、ここがラストシーンとなって最終回を終えます。)
それ以降、高麗の王は、蒙古への”忠誠を誓う証”に「忠」という文字を使った諡号を使い、蒙古に求められるまま、多くの貢物や奴隷となる人々を送ることになります。
キム・ジュン死後の史実に残る時系列
キム・ジュンが最高権力者となって10年後になる西暦1,268年12月暗殺されました。
キム・ジュン生存のこの40年間、蒙古は、何度と高麗に11次に及ぶ侵攻したにもかかわらず、一度も江華島へ渡って攻めることはありませんでした。
ただ、江華島を出て、開京(もともと都のあった場所)へ遷都するように!と、本土へ戻ることを要求するばかりだったのです。
また、キム・ジュンの没後から、二年後、高麗王の指示で江華島を出て、ようやく本土の開京へ遷都します。それに反発した三別抄(サムピョルチョ)=戦時に蒙古軍の進軍を阻止するために組織された3つの軍隊が蜂起し争います。
珍島を拠点に抗争しましたが、済州島に追いやられ、結局、麗蒙連合軍に滅ぼされました。
【元寇の戦い】
・文永の役(1274年)
・弘安の役(1281年)
日本は、「お前たちも、属国になれ」というモンゴル帝国の要求を【神風】によって、二度に渡り跳ね除けました。まさに、当時の状況では、陸続きで攻められ続けた高麗と違って、日本は、四海に囲まれた天然の要塞と言っても過言ではないほど、恵まれた環境だったと言えます。
実は、蒙古は、文永の役(1274年)以前にも、他国の水軍の船で何度も日本攻めを実行していたのですが、嵐に巻き込まれ、一度も日本に到着できていなかったようなのです。
このような長い戦の流れのあと、高麗を服従させ、造船や水兵の協力、高麗からの出航なら日本に近いことなどもあり、初めて「元寇襲来」の歴史が日本に刻まれたのです。
しかも、2度目の弘安の役においては、日本へ派遣された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊であったということです。
この年表の流れを見ても、キム・ジュン没後は、順調に蒙古の意のままに事が運び、高麗を便利に利用しながら日本に侵軍ことが分かります。
蒙古は、日本を属国にすることはできませんでしたが、鎌倉幕府は、蒙古と対峙した御家人に十分な恩賞を与えることができなかったため、御家人たちは困窮。
その上、その当時実権を握っていた北条貞時の執権の内部争いなど幕府内の混乱に加えて後醍醐天皇の朝廷内の混乱もあって、倒幕軍が拡大。鎌倉幕府滅亡へと傾いていきました。
わずか二度の襲来で幕府滅亡に追い込まれたことに比べ、度重なる蒙古侵攻に数十年耐え続けたキム・ジュンの高麗を支えた策略はシブとく、さぞ、蒙古を苛立たせたことでしょう。
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