丁卯胡乱(丁卯の役)
丁卯胡乱(ていぼうこらん)とは?
1627年に後金のホンタイジ(太宗)が、李氏朝鮮に侵攻した戦い。
時代背景
1619年のサルフの戦いにより、朝鮮は、明国の援軍を1万3000人出兵させましたが、
都元帥の姜弘立は、後金に対して「朝鮮は後金に対して戦う意志はなく、明の要請によって援軍を送っただけなのだ」と弁明の密書を送っていたことにより、
ヌルハチもヌルハチの次男ダイシャンも朝鮮への侵攻には興味を持っていなかったので、後金はヌルハチが亡くなるまで朝鮮へ侵攻することはありませんでした。
ところが、1623年仁祖反正のクーデーターにより、仁祖の新政権となる西人派は、明に対する「再造の恩」を主張し、後金との交易を停止するなど反後金・親明的な政策を取り、後金をひどくいらだたせるようになります。
その上、1624年の仁祖に対する李适(イ・クァル)の反乱(李适の乱)が起きました。
李适は仁祖反正のクーデーターの首謀者の一人でしたが、その論功行賞に不満を持ち、平安道で反乱を起こしたのです。
この反乱はすぐ沈器遠(シム・キウォン)に鎮圧されましたが、後金に逃げ込んだ反逆者の一部に韓明璉(ハン・ミョンニョン)の子の韓潤(ハン・ユン)と従子の韓澤(ハン・テク)がおり、ホンタイジに朝鮮を攻めるよう進言し、これが大義名分となりました。
同じ頃、明の遊撃部隊の指揮官であった毛文龍が、朝鮮半島において後金に対しゲリラ的な戦闘を行っていました。
後金の政変
1626年ヌルハチの死去により、八男ホンタイジ(皇太極:即位期間1626年10月20日 – 1643年9月21日)が即位。
ヌルハチの後を継いだ後金(のちに、清の第2代皇帝)ホンタイジが、
・毛文龍の率いる明の遊撃部隊を撃退。
・明との断交により、明と通商ができずに、後金の国内には出荷することのできない山積みになった人参や貂の毛皮などの経済対策。
・反後金政策をとる仁祖の新政権への懲らしめ。
という悩みを解決するため、韓潤と韓澤の持ち掛けてきた侵攻を大義名分として、受け入れたのでした。
後金が朝鮮に侵攻!
1627年、ホンタイジの従兄のアミン(阿敏)に、3万の大軍を預けて朝鮮へ遠征させました。これが「丁卯の役」になります。
遠征の結果、朝鮮を弟、金を兄とする密約が結ばれています。
丁卯の役の詳細(流れ・和議の内容)
1627年、ホンタイジはアミン(阿敏)・ジルガラン(済爾哈朗)・アジゲ(阿済格)・ヨト(岳託)・ショト(碩託)らの率いる3万の軍勢を、道案内を理由に、姜弘立ら朝鮮人の同行の下に朝鮮へ派遣しました。
朝鮮軍は後金軍に対して何の備えもしておらず、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)による被害からも立ち直っていなかったため、簡単に後金軍は朝鮮領内に侵攻することができました。
その途上で毛文龍の軍も破りましたが、毛文龍を捕らえることは出来ませんでした。後金軍が漢城に到達すると、すでに仁祖は江華島に逃亡した後でした。
こうした状況で、後金は朝鮮に和平交渉を申し入れます。
自国の防衛が手薄になることをホンタイジが気にかけていたのが要因と考えられています。
朝鮮側では、反後金派による抗戦論もありましたが、結局この和議はすぐに受け入れられたのです。
【江華島で合意された内容】
- 後金を兄、朝鮮を弟とする兄弟国としての盟約であること。
- 朝鮮は明の年号「天啓」を使わないこと。
- 朝鮮は朝鮮の王子の代わりに、王族の李玖(イ・グ)を人質として差し出すこと。
- 後金と朝鮮は、今後互いの領土を侵害しないこと。
この交渉中、ホンタイジがアミンに和議の署名をするよう命じる前に、アミンの軍は平壌で数日間略奪を行ったため、民には大きな被害がありました。
この和議は後金にとって有利な内容であり、侵攻開始から4カ月で後金軍は瀋陽に撤退しました。
しかし、和議を結んだものの、実際には、反後金、明に対する「再造の恩」への裏切りの和議だという主張は、当時の儒学者や儒教派の政治家から上がり続けていました。
そのため、1636年にホンタイジが皇帝に即位した時、反後金への思いが噴出し、1636年の「丙子胡乱」を引き起こすことになります。
丁卯胡乱を描いた韓国ドラマ
・韓国ドラマ「花たちの戦い -宮廷残酷史-」
・韓国ドラマ「華政」