貞明公主の人生を描いた韓国ドラマ「華政<ファジョン>」。
このドラマでは、貞明公主とホン・ジュウォン役(ソ・ガンジュン)のラブストーリーも描かれていますが、実は、二人は、実在する本当の夫婦になります。
でも、韓国ドラマ「華政<ファジョン>」は、フィクションも多く入っています。
二人の本当の出会いや、なれそめは?
そして、史実に残る貞明(チョンミョン)公主の本当の姿は、どんな女性なのでしょうか?
貞明(チョンミョン)公主とは?
生まれ
当時の朝鮮第14代王宣祖が年齢51歳で、仁穆王后(18歳で宣祖と結婚)が年齢19歳だった頃の、1603年、貞明公主は生まれました。
世子の光海君も、自分の座を揺るがす王子では無かったこともあり、貞明公主を心から可愛がっていたこともあったようです。
しかし、その3年後、永昌大君(ヨンチャンデグン)が正室の初めての嫡男として生まれたことで、
すでに世子になって14年が経つ光海君にとって、永昌大君は驚異の存在となりました。
父・宣祖の崩御
1608年の宣祖は即位してから41年になった年に崩御。
宣祖は、死の直前、光海君を世子から廃し、嫡男である永昌大君を世子にしたいと考え始めていましたが、結局、崩御間際に、永昌大君はまだ2歳で幼な過ぎたことを理由に、
光海君が即位することになりました。(※宣祖の死因には、毒殺疑惑が残っています。「即位するまでの様子」についてのサイト内記事)
光海君は、王に即位すると宣祖が生きているときとは永昌大君に対する態度が一変し、
1613年、七庶獄事(永昌大君を王位に推戴する謀反の計画があると、多くの反勢力が処刑・粛正された事件)が起こると、仁穆王后の父・金悌男は賜薬に処せられ、
1614年、永昌大君(9歳)は、庶人(平民)に降格の上、江華島に流刑後、蒸殺(焚刑)にされました。
仁穆王后は、大妃の地位を廃され側室の身分に降格、慶運宮に幽閉され、幽閉先は光海君がいた昌徳宮の西側にあることから、「西宮」(ソグン)と呼ばれるようになりました。
同時に、貞明公主(推定12歳)も、公主(正室の子)から翁主(庶子)に降格、幽閉先で母の西宮(仁穆大妃)と静かに暮らすようになります。
幽閉中の生活
幽閉中の貞明公主は、母を慰めるために書道に励んだと言います。
<出典:ガンソン美術館>
この書は、幽閉中の貞明公主自身が書いたもので、韓国ドラマ「華政(ファジョン)」の冒頭の題字にも使用されているものです。
光海君は「西宮」に警戒所を置いて、監視するようにしたため、自由に出入りのできる生活はありませんでした。
そんな中、貞明公主は、西宮で死んだと偽り、息を潜めて幽閉生活を送りながら、書道に専念し、後に、朝鮮最高の女流書道家として、名を残すまでに腕を磨きました。
※韓石峰(かん・せきほう、李氏朝鮮時代の書家、1543年 – 1605年)の筆法の習得をしたもので、女性には、大変難しいと言われる筆法だそうです。
「華政」の文字は、後に、貞明公主の末の息子によって、(亡くなった母)の筆跡だと公開したものだそうです。
仁祖反正
1623年3月13日、宮廷クーデターが発生(仁祖反正)し、仁穆王后と公主は、綾陽君(後の仁祖)を推す西人派によって、解放と共に名誉を回復します。
仁穆大妃として、復位した4日後、まず最初に行なったのは、貞明公主の夫選びだということです。
幽閉生活で結婚できなかったため、貞明公主として名誉を回復した時には、すでに21歳で、
当時で言えば、結婚適齢期を、すでに過ぎた年齢になっていたそうです。
そのため、20歳前後の貞明公主に相応しい身分の成人男性を全国で募集したところ、9名しか名乗り出ることがなく、
その9名の婚姻候補者の一人に、洪霙(ホン・ヨン)の息子洪柱元(ホン・ジュウォン 後の 永安尉 、1606年 – 1672年)がいたそうです。
年齢が、貞明公主よりも、3歳若く、姉さん女房の夫婦になります。
母・仁穆王后の依頼で、仁祖から広大な屋敷と土地を与えられ、その後、夫の洪柱元(ホン・ジュウォン)とは、良好な関係を築いていき、7男1女を儲けました。
貞明公主とホン・ジュウォンの子孫に、正祖やホングギョンが!
二人の間の七人の息子のうち、長男、五子、六子の3人は早世しました。
次男の玄孫として、22代王 正祖イ・サンの実母である恵慶宮洪氏がいます。
- 玄孫(洪萬容を1世として5世の孫):恵慶宮洪氏(1735年 – 1815年)
だから、22代王 正祖、23代王 純祖、孝明世子、24代王 憲宗も、貞明公主とホン・ジュウォンの次男洪萬容の血筋ということになります。
また、洪鳳漢(恵慶宮洪氏の父、ホン・ボンハン)は、次男洪萬容の曾孫、洪璘漢(ホン・イナン、洪鳳漢の弟でイ・サンの大叔父)も、次男洪萬容の血筋になります。
さらに、24代王 憲宗の母神貞王后も、曾祖母が恵慶宮の叔母にあたる為、子孫の一人になります。
王族が政治に関わることは禁じられていましたが、次男洪萬容は、粛宗の時代に、吏曹判書と礼曹判書を歴任しました。
王位継承権が無いことから、外戚として、貞明公主への配慮があったのかもしれません。
一方、三男洪萬衡の妻は驪興閔氏で、夫妻の子孫に、正祖(イ・サン)の側近となった洪国栄(ホン・グギョン)と、洪国栄の妹でイ・サンの側室になった元嬪洪氏(ウォンビン ホンシ、三男の洪萬衡の来孫)がいます。
- 三男の来孫(洪萬衡を1世として6世の孫):洪国栄(1748年 – 1771年)
韓国ドラマ「イ・サン」の中で、恵慶宮洪氏の家柄と洪国栄は、親戚にあたると言う話しが出てきますが、
確かに、姓が同じ「洪<ホン>」で、先祖の「ホン・ジュウォン」から来た名字(洪)であり、貞明公主まで遡ってから繋がる親戚だったというわけですね。
貞明公主亡き後、数十年後に、正祖と洪国栄のような、自分たちの子孫が手を取り合って改革を推し進めるような王と臣下になるとは、想像もしていなかったことでしょう。
三男の妻・驪興閔氏の一族とは?
ちなみに、三男の洪萬衡の妻が、驪興閔氏となっています。
驪興閔氏と言えば、後にも、興宣大院君となった李昰応は驪興閔氏出身の女性と結婚します。
夫妻の次男命福が26代王高宗となり、
高宗の妃も、驪興閔氏の閔致禄の娘が選ばれ、閔妃(明成皇后)になります。
閔妃(明成皇后)は、一族を積極的に登用し、大院君が失脚すると驪興閔氏が政権の重職を占めました(閔氏政権)。
三男の洪萬衡は史曹左郞の役職があったため、結婚の際も、ひょっとすると、政治的に活躍の場を狙っていたのかもしれませんが、洪国栄の家は、正祖と出会う前、かなり生活に苦しかった時期もあったようです。
貞明公主の結婚にあたり仁祖の対応
仁祖反正で王になった第16代王仁祖にとって、貞明公主の結婚は政権の正当性を裏付ける大きな行事でもありました。
そのため、貞明公主の結婚は、仁穆大妃と仁祖の配慮の中で行われました。
仁祖は、貞明公主の新婚の家を、景福宮と昌徳宮の間にある安東離宮に設け与え、貞明公主が宮廷に出入りするために不便がないようにしました。
住まいは、貞明公主房、または、永安潍坊(永安尉房)と呼ばれたそうです。
経国大典には、王女の家が50軒を超えないように定められているところ、潍坊は200軒を超えるほどの規模だったとあります。
さらに、土地についても、夫ホン・ジュウォン家の財力に加え、仁祖の恩恵に多くの不動産と富を集めることができたため、貞明公主の土地を換算すると約5万坪に達したほどだったという説もあります。
再び、暗転した人生
しかし、仁祖と仁穆大妃や貞明公主は、信頼関係で結ばれていたわけではなかったため、
その後、不仲説があります。
1632年(仁祖10年)仁穆大妃は、49歳の年齢で息を引き取りました。
仁祖は、精神的、肉体的に疲弊するほど喪に服しますが、喪が明けた時、仁穆大妃の宮から、
帛書三幅(※帛と呼ばれた絹布に書かれた書)が発見されました。
絹布には「王を退位させ、立てる日だった」というようなフレーズがあったため、
仁穆大妃が、仁祖を退位させて、他の誰かを王に立てようとしていたのではないか、と仁祖は疑いました。
仁祖の疑いは、宣祖の唯一の嫡統である貞明公主にまで及ぼしました。
仁祖は体が痛む時は、決定的な証拠がなくても、貞明公主が自分を呪詛で呪い殺そうとしていると考え、貞明公主を迫害したこともあったようです。
1639年(仁祖17)原因不明の病気にかかった仁祖は、今回も呪いにより病気にかけられたと信じて咀呪物を探させました。すると、あろうことか、元孫が居住する本宮で呪いをかけるときに使うものが発見されました。
仁祖は、事件の背後に貞明公主がいるのではないかと疑いましたが、チェ・ミョンギルを中心とした臣下が積極的に対応し、一旦は事なきを得ますが、
呪い疑惑は、水面下に沈み、再びいつ爆発するか分からない活火山のような状態だったと残されています。
母・仁穆大妃の亡き後、仁祖が崩御するまで17年間、貞明公主を誣告容疑で苦しめられました。
貞明公主の人柄について
実際に、貞明公主の人柄はどうだったのでしょうか?
貞明公主の人柄については、大変評判の良く書かれたものが多くあります。
丙子胡乱が起きたとき、35歳だった貞明公主が江華島に避難しようとした時、
貞明公主が、江華島行きの船に乗ろうとしていると、すでに貞明公主の財を積んだ船が待機していました。
同じ頃、避難民たちも集まっていましたが、船に定員の倍が乗ろうと民が騒いでいたため、
貞明公主は下人に「財をすべて下ろし、民をまず倍に乗せなさい!」と命じたそうです。
民は先を争って船に上がって貞明公主を褒め称え、「心遣いが素晴らしいので、子孫は必ず繁栄するだろう。」と皆が一言ずつ感謝を述べたといいます。
貞明公主の晩年は、とても穏やかに過ごすことができ、
顕宗と粛宗の時代には、貞明公主に対して最高の礼遇を惜しまなかったそうです。
また、貞明公主とほぼ同時代を一緒にした宋時烈(宋時烈、1607〜1689)は、貞明公主の墓地(墓誌)に次のように書きました。
「姫は夫人の尊さにふさわしく謙虚で丁寧で善良温厚て五福を享受した。
宋時烈の墓地文通りなら、貞明公主に、五福は「尊、謙虚さ、丁寧、善良、温厚」なお人柄であったと言えます。
さらに、1682年(粛宗8年)貞明公主が80歳になった年に、最年少の息子洪萬懐(七男、1643年 – 1710年)に次のような手紙を書いて送りました。
私が願う 君へ
あなたが他の人の罪を聞いたとき、まるで親の名前を聞いたときのように耳だけを聞いて口では言わないでほしい。他の人の長所と短所を口に上げ、政治と法律をみだりに是非することを私は最も嫌っている。私の子孫が、むしろ死のうとも軽薄に言ってほしくない。そんな言葉が聞こえないことを望む。《訳文》《原文》
내가 원하건대 너희가 다른 사람의 허물을 들었을 때 마치 부모의 이름을 들었을 때처럼 귀로만 듣고 입으로는 말하지 않았으면 좋겠다. 다른 사람의 장점과 단점을 입에 올리고 정치와 법령을 망령되이 시비하는 것을 나는 가장 싫어한다. 내 자손들이 차라리 죽을지언정 경박하게 말하지 않았으면 좋겠다. 그런 말이 들리지 않기를 바란다.
素敵な言葉ですね!
王女として生れながら、半生を、生と死の間で苦労して生きてきた貞明公主らしい言葉ですね。
貞明公主の家族
- 父:宣祖(朝鮮第14代王、1552年12月26日 – 1608年3月17日)
- 母:仁穆王后(1584年 – 1632年)
- 妹:公主(1604年、早世)
- 弟:永昌大君(1608年 – 1614年)
- 夫:永安尉 洪柱元(1606年 – 1672年)
《子供》
- 長男:洪台望(1625年 – 早世)
- 次男:礼曹判書 貞簡公 洪萬容(1631年 – 1692年)
- 妻:礪山宋氏
- 玄孫:洪鳳漢(1713年 – 1778年)
- 来孫:恵慶宮洪氏(1735年 – 1815年)
- 三男:史曹左郞 洪萬衡(1633年 – 1670年)
- 妻:驪興閔氏
- 昆孫:洪国栄(1748年 – 1771年)
- 四男:洪萬熙(1635年 – 1670年)
- 五男:洪台亮(1637年 – 早世)
- 六男:洪台六(1641年 – 早世)
- 七男:洪萬懐(1643年 – 1710年)
- 長女:洪台妊(1641年 – 没年不詳)
貞明公主を描いたドラマ「華政(ファジョン)」
貞明公主の人生を描いた華政(ファジョン)韓国の原題は「花井」となっています。
「花」は、韓国語で「ファ」と発音しますので、「ファイ」とも読めますね。
ドラマの中で、貞明公主が死んだと装い、別人に成りすましていた時の名前が「ファイ」でした。
日本タイトルでは、「華政(ファジョン)」、由来は、先に述べた幽閉中に書いたとされる「華政」の文字を取ったことが分かります。
この本人の自書した「華政」の文字は、ドラマ冒頭の題字としても使われました。
死んだように生きていた「ファイ」とその時の思いを込めて書いた「華政」
どちらも、厳しい政治の世界で生き残るために彼女が選んだ人生のキーワードではなかったのだろうかと解釈されて名づけられたと思われます。
「華政(花井)」の言葉は、ドラマの最後に、「輝く政治」「華やかな政治」と、最終回のラストシーンで、貞明公主が第17代王孝宗に贈る言葉として、登場しました。
権力欲の強い王と政治家集団による殺傷と粛正の多い暗い闇のような政治から、光輝くような民の幸福に満ちた笑顔が見られる政治を望んで出た言葉とも言えるでしょう。
夫のホン・ジュウォンは、66歳で先に亡くなってしまいましたが、貞明公主は、82歳まで、王族の中でも最高齢に位置するほど長生きをして、6人の王の政治をご覧になりました。
顕宗と粛宗の時代の晩年には、貞明公主の夢にみた世の中が、ひょっとしたら実現していていたように映っていたかもしれませんね。
※参考サイト「Wikipedia(日本版)(韓国版)」「 NAVER」