朝鮮王第23代純祖の時代から、第25代国王哲宗の時代までの60年間、国王の権力をも上回る安東金氏の勢道政治は、どのように生じたのでしょうか?
安東金氏の勢道政治が始まったとされる原因に、朝鮮王第23代純祖の正室である純元王后 金氏と、その一族が始めたことは有名ですが、
この時、純元王后 金氏は、推定年齢13歳で王妃になったばかり。
当然、首謀者となる年齢ではないため、一族のために、命令通りに動いただけだと思われます。
この安東金氏の勢道政治を始めることができた経緯については、もっと遡ること、第21代国王英祖のころからをみると、王室と朝廷の関係性が分かりやすく見えてきます。
安東金氏の勢道政治の前兆
第21代国王英祖の2番目に迎えた王妃(継室)貞純王后 金氏の存在!
第21代国王英祖が2番目に迎えた王妃(継室)貞純王后 金氏(チョンスンワンフ キムシ)は、
14歳で当時65歳の英祖に嫁ぎ王妃に冊封されます。
朝鮮実録によると、荘献世子は、貞純王后 金氏について、
「自分よりも若い女性を、母親として敬うことなんかできるか!」(韓国ドラマ「大王の道」の台詞)
という気持ちを露わにするほど、貞純王后を毛嫌いしていたそうです。
一方、まだ十代で若い貞純王后にとっても、そのような荘献世子が、老い先短い英祖の後継者として世子の座にいるのは、英祖亡き後のことを考えると、恐怖に感じたかもしれません。
父親の金漢耈に唆されるままに、世子の非行を王に告発し、英祖の荘献世子への怒りを増幅させ、
羅景彦の上疏事件が起きた時には、世子を死に至らせるまで、良からぬ役を果たしました。
正祖の執政期は『時派』と『僻派』の対立!
荘献世子を米櫃で死に至らしめた事件により、朝廷は、
その荘献世子の死に同情を示す『時派』と、
荘献世子の罪は当然!という立ち位置をとった『僻派』(おもに老論派の中の強硬派および保守派)とに分かれました。
そして、世孫の祘(サン)の周囲には『時派(シバ)』が集まり、
貞純王后は、『僻派(ピョンパ)』(中心人物:シム・ファンジ、ホン・イナン、チョン・フギョムなど)を擁護しました。
実は、その両派の政策には、大きな違いもありました。
『時派』は、後に、正祖の政策に賛成した南人と少論派、一部老論派臣下たちで、「蕩平策(とうへいさく)」(※「党争をなくすための政策」で、党派間の政治勢力の均衡をはかるための人事)にも賛同し、キリスト教を容認している人も多くいました。
※正祖執政期は、「老論派」や『僻派』を朝廷から追い出すことも出来たはずなのに、党派間の政治勢力の均衡をはかるために、あえて、「蕩平策」を主張し、1つの勢力に偏らないように、努力したのですね!
『僻派』は、正祖の政策に反対派が多く、大多数の老論派臣下たちで、君臣の上下関係(身分制度の区別)を重んじる儒教を大事にしていました。
正祖は荘献世子の死に関与している貞純王后と対立関係にあり、
一方、貞純王后は、兄の金亀柱(キム・グイジュ)を流刑中に死亡させた正祖のことを恨みながらも、正祖の執政期は、巻き返しの機会を待ちながら、息をひそめて暮らしていました。
正祖の死後、貞純王后が垂簾聴政!
正祖が亡くなると、まだ10歳の純祖が即位し、直後より、貞純王后は大王大妃として垂簾聴政を行い、取り止めるまでの3~4年間権力を振るいました。
貞純王后が玉璽を手にして、まず行ったのが、実家の又従兄弟の金観柱(キム・グァンジュ)を吏曹参判(文官の人事を担当)に任命して、『僻派』の人材を大挙登用し、正祖を支持した人たちの大規模な粛清を行なうことでした。
そして、権力を握った金観柱と沈煥之(シム・ファンジ)が、正祖を支持した人たちを大量殺戮・粛清することで、『僻派』政権を樹立したのです。
これによって、正祖の恐れていた1つの勢力(僻派)に権力が偏り、貞純王后の下、王権を上回る勢道政治の体制に成功したのです。しかも、純祖は、まだ10歳あまり。訳も分からぬうちに、王権を弱め、自分の首を絞めるような政治体制が作られていったのです。
正祖の支持派や時派は、朝廷から追い出しただけでなく、大規模な粛清!
純祖の即位に合わせ、「邪学と異端を排斥する」という公布を出しています。
これは、『時派』や正祖を支持した人たちに、カトリック教を信じる人が多かったことを利用し、国の根本となる身分制度を崩す可能性のあるカトリック教の弾圧を大義名分としながら、
『時派』や正祖を支持した南人を粛正することができたのです。
そのため、カトリック教徒の粛清から始まり、『時派』や正祖を支持した南人、中には、王族や少論派、ただ巻き込まれただけの人もおり、
全国で数万人規模に及ぶほどの殺戮が行われました。
キリスト教弾圧(辛酉教難)のおもな対象例
◆チョン・ヤギョン(丁若鍾)※正祖の側近の儒学者であり実学者、ハングルで『主教要旨』2巻(朝鮮語で書かれた最初のキリスト教教義書)を執筆。
大逆罪で刑死。丁若鍾の三兄弟の兄丁若鏞・丁若銓は流刑。
◆李家煥(イ・ガファン)、権哲身(クォン・チョルシン)※正祖の側近の儒学者、天主教徒。
捕らえられ、獄死。その他、崔必恭、洪楽敏、洪教万、崔昌顕らも処刑。実学者の朴趾源、朴斉家は、無関係にも拘らず政界追放。
◆李承薫(イ・スンフン)※1784年、朝鮮最初のキリスト教徒になる。
処刑。周文謨(中国人神父)義禁府に自首し、軍門梟首。
◆恩彦君(第22代国王正祖の異母弟、荘献世子の庶子、哲宗の祖父)
カトリック信者である夫人宋氏が1801年の辛酉邪獄で殉教(毒殺刑)し、恩彦君も連座して死薬を賜った。
◆常渓君の妻(平山郡夫人申氏)
カトリック教会を信奉し、清の神父の周文謨から洗礼を受けた。密告により常山郡夫人宋氏とともに毒殺刑。
このような貞純王后の垂簾聴政(粛清)により、朝廷は、「老論派」や『僻派』だけが要職を占めることに成功しましたが、
貞純王后の垂簾聴政で行う外戚による政治は、わずか3~4年で終わり、純祖の親政が始まって約1年余りで、貞純王后は亡くなっています。
安東金氏の勢道政治のはじまり
純元王后金氏の父金祖淳が安東金氏一族の基盤を作った!
純祖の親政以降、貞純王后の外戚による勢道政治を、安東金氏の外戚中心の勢道政治の基盤に変えたのは、第23代国王純祖の正室:純元王后金氏の父親金祖淳(キム・ジョスン)と言えます。
金祖淳は、老論派でしたが、正祖の信頼が厚く、死に際に、「幼い(10歳)純祖の世話を頼む」と遺言を伝えた奎章閣の文臣の一人で、『時派』と『僻派』のどちらにも属さず、中立的な立場を維持していました。(=『時派』とも言えます。)
正祖は、死の直前、金祖淳の娘を世子嬪に選んでいるほど信頼のおける人物で、2段階目の揀択(妃選び)で正祖の意志は、金祖淳の娘を世子嬪にと決めていたものの、1800年、最終的な揀択が行われる前に、正祖は亡くなってしまいました。
貞純王后は、最終的な揀択を妨害しますが、この決定を覆すことはできず、金祖淳の娘が王妃として冊封されます。
なぜ、貞純王后は金祖淳を粛正しなかったのか?
ここで、疑問!
なぜ、貞純王后は金祖淳を粛正しなかったのか?
そして、王妃冊封まで2年近くの空白期間があるのは、なぜか?
という疑問が残りますので、調べてみました。
一般的な見解で、貞純王后の垂簾聴政が始まると、金祖淳は、「時派」に属していたものの、党派色を表に出さない中立的な立場をとり続けたこと!
とありますが、
先王正祖が確定した結婚を積極的に非難することが、表立ってすることができなかったともあります。
しかし、よく調べてみると、
その一方で、貞純王后は、1800年金祖淳を「兵曹判書」に任命しています。
でも、確か、貞純王后の垂簾聴政の最初の大きな政策は、正祖の支持者を一掃すること!でしたよね~。
つまり、「兵曹判書」ともなれば、その粛清をリーダー的に実務を行っていく立場になるわよね~!!
そのため、金祖淳は、2度に渡って、辞職を申し出たとありますが、貞純王后はそれを認めなかったとあります。
また、それに加え、「備辺司」(軍事行政機関)も兼務させています。
推測ではありますが、正祖の死後、2年経ってから金祖淳の娘が、ようやく純祖の王妃として認められたのは、貞純王后の納得のいく働きを、この2年間で行ったからなのかもしれません。
しかも、表面的には、要職を与えていますが、カトリック教の厳禁の政策は、金祖淳の親戚の金建淳(ノロン出身の唯一のカトリック信者であり殉教者)も逮捕・斬首刑にしていますので、貞純王后が金祖淳を心から信頼しているとは言い難いですね。
朝鮮実録には、「金祖淳は貞純王后の政治に協力した」とだけあります。
立ち位置をハッキリとさせない金祖淳を、正祖の支持者や身内の処分もどこまでできるのか?
貞純王后は、金祖淳を試した結果、王妃冊封を許さざる得なかったのかもしれませんね。
1801年には、「吏曹判書」にも任命されますが、病気を理由に辞退しています。
金祖淳は、粛清の対象であった『時派』でもありながら、1802年、娘を王妃の冊封に成功してからは、王の義父である「永安府院君」に封ぜられたことにより、
政治家として、決定的な地位を確保することができ、簡単には、手を出せない存在になっていったようです。
正祖が金祖淳に託した遺言とは?(推論)
以上の流れと、ある一つの仮説の文書も見かけました。
正祖は、「純祖を守って欲しい!」と、王の義父である「永安府院君」の権力を、金祖淳に与えようとして亡くなっています。
正祖は、死の間際、自分が亡き後、10歳の純祖が王位に就き、貞純王后が垂簾聴政をすることは、想像できていたことでしょう。
その事態から、「純祖を守って欲しい!」と、託されていたのでしょう。
計算外は、王妃(当時は世子嬪)の冊封まで、正祖の命が持たなかったこと。
また、「純祖を守る」ため、「貞純王后一族の粛清」も、正祖との密約があったかもしれません。
金祖淳が、貞純王后が垂簾聴政に協力をしながらも、貞純王后の死後、すぐに反旗を翻し、貞純王后の本貫である慶州金氏一族と『僻派』と「老論派」の粛清を行なった行動は、
まさに、正祖の遺志を形にした瞬間だったのでは?と思えてきます。
この日のために、貞純王后への協力を惜しまず、正祖の支持者や身内が粛清されていく中、生き残って、遺志をやり遂げる準備をしていたのかもしれません。
そう考えると、正祖が信頼しただけのことはある忠臣だと言えますね。
貞純王后亡き後の純祖の親政
貞純王后の亡き後、純祖の親政は、国舅(国王の義理の父)である金祖淳が専断(自分だけの考えで勝手に物事を決めて行うこと)したとあります。
最初に行なったのは、貞純王后を支持した慶州金氏一族の粛清のほか、老論派、僻派を粛正し、安東金氏による勢道政治の基盤を作り上げました。
朝廷は、すべて安東金氏一族が占め、正祖の時代の奎章閣の文臣なども登用されました。
金祖淳は、いかなる官職にも就くことはありませんでしたが、国舅として、純祖を補佐し、専断したとあります。
安東金氏一族の勢力が増しすぎたことで、孝明世子の妃に豊壌趙氏の女性を選び、婚姻させることで、派閥の均衡を保とうとした考えも、金祖淳ならではのアイデアと言えます。
しかし、ここでも、激しい党争に発展したり、孝明世子が若くして亡くなってしまうとは、金祖淳の予想外な展開だったのかもしれません。
憲宗の時代に、金祖淳から息子の金左根(キム・ジャグン、※その後の安東金氏の首長)に権力は移り、安東金氏一族の黄金期へと入っていきます。
安東金氏一族による勢道政治による世の中の変化
安東金氏一族による勢道政治の独裁政治により、
- 科挙制度は乱れ、売官売職が常態化する。
- 農民層への収奪が強まる⇒全国で農民の民乱が度々起きる。
- 貪官汚吏の横行。
- 政治の紀綱が乱れる。
- 謀反が度々起きる。
- 伝染病が広がっても対応がとられず、十数万に及ぶなど、多くの命が失われた。
- 純祖の在位期間の34年間中、19年間は水害などの天変地異が絶えなかった。
- 欧米など列強の外圧への的確な対応が困難になる。
- 純祖の在位期間中、19年間に渡って水害が起きるが、民の救済は行なわれず、民の暮らしは地獄絵のように飢えや納税などによる貧困で苦しむ。
といった世の中になっていきます。
安東金氏一族を衰退させた興宣大院君
新安東金氏一族60年間の勢道政治の中で、黄金期の護衛武士は数万人、奴婢数十万人、国土の多くが新安東金氏一族の保有となり、財産的には、現在の価格で1千兆ウォンに匹敵するほど、測定できない財産と権力水準だったと考えられています。
この財産の所有について、韓国ドラマ「明成皇后」で、興宣大院君は、
と憤る場面があります。国の国庫とも言えるほどの財産を私物化し、権力を振るっていた新安東金氏一族が、いかにやりたい放題であったのか?
が、想像できますね。
興宣大院君がこの言葉取り、王権を取り戻し、高宗の摂政をしながら、安東金氏一族を追い詰め、すべての財産を差し出すように仕向けます。
そして、安東金氏一族を衰退させていきますが、その回収した国庫を、今度は、明成皇后が閔氏一族の勢道政治をはじめたことによって、閔氏一族の倉が財宝の山となり、明成皇后自身もお祓いなどに多額の資金を投じ、国庫が底を突いてしまうので、興宣大院君が怒り、明成皇后との対立が激化したのも無理ないですね!
安東金氏一族の衰退は、興宣大院君だからできた!と言えますが、その上をいく、明成皇后もかなりやり手と言えます。(この様子は、韓国ドラマ「明成皇后」へ)
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