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高麗光宗が兄弟を粛正した本当の理由とは?名君になるため陰で支えた策士もいた!

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光宗・第4代王・王昭(ワン・ソ)

高麗時代、類を見ないほどの多くの豪族や王族を粛正したことで有名な高麗王第4代光宗は、名君なのか?それとも暴君なのか?

ほかの時代にも粛正はありましたが、なぜ、あんなにも大勢の人たちを殺す必要があったのでしょうか?

当時の人たちの心情までは分かりませんが、史実の流れと、光宗を取り巻く人たちの環境から、光宗の行なった粛正を考えてみたいと思います。

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光宗が名君として残る政治について

奴婢按検法を宣布(956年)

光宗は、949年、第4代高麗王に即位しました。

その7年後には、奴婢按検法を宣布し、戦や借金などで豪族の奴婢になっていた昔平民だった人たちを、元の平民に身分を回復してあげるという法律を宣布します。

即位当時は、王よりも開国功臣の豪族が権力を持ち、たとえ王が提案しても、豪族が「NO!」と言えば、その法案は通らないほど、王権は弱かったと言います。

それにも関わらず、豪族が持つ奴婢を取り上げる法案が通過したのは、すでに、光宗が、何らかの根回し(準備)をしていたことが考えられます。

そもそも、豪族が持つ奴婢は、平和な時は、田畑を耕し、イザという時は、私兵になる存在。私兵の数が多いほど、金銭的にも豊かで権力も大きいと言われる時代です。

反対されることを承知で、緻密に計画を立てて、法案を通したのでしょう。

この法案が通ることで、光宗が得たメリットは、”豪族の権力を弱めた!”ということや、”民心を得た!” そして、平民が増えれば、”税収も上がる!”ということになります。

平民に戻った民の中には、国(光宗)の兵になった!という人達もいるようです。

デメリットは、”豪族に恨みを買った!”ことで、王族の中から他の王を立てたいという豪族の気持を膨らませたことになります。

科挙制度の開始(958年)

その2年後には、科挙制度を初めて行なうようになりました。

それまでの政治は、王と豪族が中心となって行い、世襲をしながら豪族の地位が保たれていました。

ところが、才能や知識のある民を科挙で採用し、政治に加わることが出来るようにしたため、王に反対する豪族は無職となり、

空いたポストには、科挙で採用された優秀な人材で埋めていくことができるので、光宗にとっては、好都合な制度でもあり、思い通りの政治を行いやすい環境を作ることが出来ました。

当然、このことで、職を失った豪族は、ますます光宗に反感を抱くようになったことでしょう。

力を弱めてから、権力を削ぐ!
まさに、豪族にとって恐ろしいほど、優れた政治で王権強化をしていますね~!

しかし、この政策により、高麗でも漢文学が大きく発展し、成宗の治世以後は、文治主義が盛んになったことにより、漢文学は貴族の必須教養となっていき、優秀な詩人も登場していくほど、成果を残していきました。

仏教を広め、寺院の建築に力を注いだ!

初代王の王建は、943年、死の1ヶ月前に、高麗の後代王たちが必ず守らなければならない教訓として「訓要十条」を残しました。

その中には、

  1. 仏教を崇尚する。
  2. 道先大師の風水地理説によってだけ、寺を作るようにする。
  3. 仏に仕える燃燈会と、山河の神に仕える八関会をよく行う。

という内容も含まれていたそうです。

日本では、同時期、平安時代の頃です。日本でも平安時代と言えば、「鎮護国家思想」(仏教によって国政を安定させると言う考え)により、数多くの寺院が建てられ、国の安定を図るための国策にもなりましたね。

光宗も、王建の残した教訓を守るとともに、国の安定を願って、仏教(寺院の建築)に力を注いだのでしょう。

また、優秀な僧侶を王師として側に置くほど、自身の信仰心も厚かったようです。

無料の医療センターを設立

大悲院(韓国語:대비원; )として知られる医療センター「慈悲の家」は、貧しい患者に無料の薬を提供し、開城と平陽に設立されました。

光宗は、未亡人や孤児、干ばつの時代のための備えなど、毎年の費用は太祖の10年間の費用になるほど費やし、民を大事にしました。

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高麗開国当時の背景とは?

上記のように、名君と呼ばれて相応しい政治を行なっていたはずの光宗が、なぜ、”血の君主”と呼ばれるようになってしまったのでしょうか?

まずは、その時代背景・光宗の置かれていた立場を見てみましょう!

高麗の開国に伴う背景

高麗は、太祖王建が918年に建国しましたが、当然、一人のチカラだけで成しえたことではないため、開国当初は、多くの功臣や、太祖王建との姻戚関係をもつことで服従した豪族など、利権を求める輩が大勢いました。

そのため、太祖王建と婚姻関係を結んだ妃は、29名。王子も25名、王女も9名いるほどの大家族となります。

詳しくは、「高麗初期・王族系図(太祖王建から第8代高麗王顕宗まで)」の記事で紹介しています。

太祖王建の死後は、太祖王建の長男に王位を継承し、第2代王には恵宗が即位します。当時、恵宗は31歳頃と推定されます。

ある日、太祖王建の死とともに、この大勢の野心家の功臣とファミリー、まだ安定していない国を託されて、若き恵宗は、重臣で義父でもある王規《ワン・ギュ》に実権を握られ、自身は病弱でもあったため、国を治められる政治力を持っていませんでした。

王規《ワン・ギュ》は、自分の娘の長女・次女を太祖王建の第15妃・第16妃にしており、三女は、恵宗の妃にもしました。

恵宗は病弱なため、王規は、万が一の玉座の継承者を、王規《ワン・ギュ》の長女で太祖王建の第16妃小広州院夫人の息子の広州院君(王建第10王子、王規《ワン・ギュ》の孫、恵宗の異母兄弟)を跡継ぎにしようと考えます。

王位継承順位に正統性がないことから、王規《ワン・ギュ》よりも勢力も地位も大きい豪族や王族たちは、これを不服に思い、王規の乱が起こります。

王規の乱

949年、第2代高麗王恵宗は、いくら病弱とは言え、即位2年で、突然亡くなったことから、暗殺だったのではないかという説が有力となっています。

この恵宗の死後、王規に対抗したのが、王式廉《ワン・シンニョム》と王堯(ワン・ヨ)でした。この乱には、同腹母の弟の王昭(ワン・ソ)も加わったようです。

継承争いのようにも見えますが、実際には、「実権を握っている王規」VS「実権を狙う王式廉」との政争とも言え、

最終的に王式廉が勝利をして、王式廉《ワン・シンニョム》の後ろ盾により王堯(ワン・ヨ)が王座につきました。

この時の政争で負けた王規をはじめ、一派約300人が処刑されたということです。

また、王太后も王宮から立ち退くように迫られました。

この「王規の乱」による大量処刑を目の当たりにしたことによって、ひょっとすると、後の光宗の粛正の参考になるものを経験したのかもしれません。

このような形で即位した第3代高麗王定宗も、実権は執政大臣として王式廉に握られ、在位わずか4年で病死しました。

定宗は、亡くなる前に、王昭(ワン・ソ)に王位を譲位し、同じ頃、王式廉《ワン・シンニョム》も亡くなっています。

※「王規の乱」詳細は、こちら!

王規の乱とは?首謀者は、ワン・ギュ?それともワン・シンニョムなのか?|高麗時代初期
高麗時代初期、第2代王恵宗が死ぬと、「王規の乱」により第3代王定宗が即位しました。この乱を起こした重要人物王規(ワン・ギュ)は、どのような人物なのか?「王規の乱」に関わった人物や経緯、歴史に残るエピソードなどをご紹介しています。
即位前から、王昭(ワン・ソ)は、民心を掴む行ないをしていた!

王式廉《ワン・シンニョム》が、実権を握る中、王式廉は、西京遷都の政策を計画し、急ピッチで行いました。

多くの者たちが、西京遷都に反対し、第3代王定宗に止めるように進言をしますが、定宗は王式廉に逆らうことが出来ず、そのまま西京遷都計画を推し進めました。

西京遷都のための王宮建設責任者を王昭(ワン・ソ)とし、5年という短期間で終えるように命じます。

大規模な建設は過酷を極め、駆り出された人夫たちは死に至る者も多く、特に、伝染病が急激に拡大し、梅雨という悪条件も重なって人夫たちが続々と倒れていったようです。

それにも関わらず、クォン侍中が苦しむ人夫たちを容赦なく過酷に働かせる一方、王昭は救護所で自ら病人たちに薬を与え、自分の家に備蓄してあった食糧を差し出し、

さらに、梅雨が終わるまで作業を休止すると勝手に宣言をし、次第に王昭は民心を掴んでいったようです。

結局、怒りを通り越した民が反乱を起こし、兵士を殺して逃げていきました。そして、後日、執政大臣の王式廉の息子ワン・ハムスン、クォン侍中が西京で暴徒に殺され、西京一帯は火の海になりました。

西京での暴徒と、息子の死の知らせを聞いた王式廉もショックで倒れ、そのまま息を引き取ったそうです。

西京の暴徒を最終的に説得して解散させた王昭の姿に、朝廷がすでに王昭を次の王と認めるきっかけともなりました。

そのため、重病の第3代王定宗は、王昭に譲位したという経緯があったようです。

史実に基づいて制作されたという韓国ドラマ「光宗大王 〜帝国の朝〜」よりあらすじを抜粋

※事実、こんな人柄であったなら、無料の医療センターを、後に作るきっかけとなった経験だったのかもしれませんね。

光宗には策士がいた?

即位当時の第4代王光宗は、侍中をパク・スギョンに任命し、力のある豪族を登用し、豪族の顔色を伺ってばかりいるひ弱な王に見られていたそうです。

玉座を狙われないよう大人しくしていただけなのか、機が熟すのを待っていたのか・・・。

韓国ドラマ「光宗大王 〜帝国の朝〜」では、光宗は王座についた途端、急に人が変わったように豪族たちにこびを売るようになり、王族の威厳を失ってしまったかのように思える振る舞いをする一方、

「韓非子」を読み、撃毬場を大きくし、大豪族のもとには財産を調査するための官吏たちが放たれたと、描いています。

撃毬(キョック)は、高麗時代、武芸を競い合わせ、勝利者を身分に関わらず武人として登用した競技です。

密かに、豪族の前で大人しくしているようで、史実の光宗も密かに王権強化の準備をしていた7年間だったのかもしれません。

そんなある日、955年、後周建国の礎を築いたという雙冀《サンギ》が光宗と面会しました。

雙冀は、『 貞観政要』(中国唐の太宗の政治に関する言行を記録した書)を読むことを勧め、政策として「奴婢(ぬひ)を解放」を提案し、光宗は、翌年の956年には「奴婢按検法」の施行したことになります。

さらに、雙冀《サンギ》は、続く第二の大改革法案として、科挙制度の導入も提言し、光宗は、それも958年に実行に移しました。

光宗の名君と呼ばれた政策は、策士となった雙冀《サンギ》との出会いにより、行われたようです。

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なぜ、光宗が”血の君主”のイメージになってしまった出来事とは?

光宗の統治後半は、処刑の話しばかり続出!

光宗の統治前半は、先でご紹介したような”名君”と思われるような政治力を発揮し、第2代王や第3代王と違い、王権強化と国の安定を自身も強く願い、目指していたことが分かります。

しかし、その王権強化には、多くの豪族の勢力や権力を奪う政策が多かったため、豪族の反感もその分大きかったことは想像できますね。

光宗の時代後半は、そんな豪族たちの怒りが爆発し、謀反が多く起こったのかもしれません。

謀反や、玉座を狙う(又は、豪族に押された王子)王族も出てくるなどし、一掃するため豪族や王族に対し粛正が行なわれたようです。

周囲に疑い深くなり、密告者には褒美も与えたという記述もあります。また、疑いは妻子にも及び、王族も粛正の対象となっています。

光宗の粛正の対象となったとみられる王族・豪族の粛正

  • 恵宗の長男・興化君は第4代国王光宗に処刑(960年)される。
  • 恵宗の長女・慶和宮夫人は、第4代国王光宗の妃となったが、弟が光宗に粛清されたことを受けて自殺(960年)。
  • 戴宗:王旭(初代国王太祖の第8皇子)は、969年で宮廷闘争で光宗に殺されたと韓国ドラマ「千秋太后」で描かれています。
  • 黄州(ファンジュ)一族にも同様の謀反の疑いをかけられる。(969年)
  • 孝隠太子・王垣《ワン・ウォン》は、謀反を起こし、光宗から毒薬を与えられ死ぬ。(969年)
  • 定宗の息子である王子(名前と年月は不明)。
  • ワン・ジュ9歳(後の景宗)に服毒の刑を命じる。(969年)
  • 大穆王后(光宗の妻)は、ワン・ジュの処刑を阻止するため、「私が先に死にます」と言って光宗の前で自らの喉元にやいばを突きつけ、ワン・ジュの死刑を阻止した。(969年)
  • 謀反を企てた平州(ピョンジュ)一族と参加した全兵士(数百人)の処刑。(969年)
  • 平州一族を皆殺し(約300人程度)にされ、息子たちを王都へ移送されたパク・スギョンは、自害した。(969年)

記録やドラマ上で見つけられたのは、以上ですが、謀反や宮廷闘争の場合、本人だけ処刑ということはありえないので、その周辺、豪族の場合は子孫も含めた一族や私兵なども含めて処刑されたのかもしれません。

ほかにも、光宗の反感を買う発言をしただけでも、「首をはねろ!」ということもあったみたいなので、そのような処刑をされた臣下の数は、不明とされます。

具体的な謀反の詳細や回数までは見つかりませんが、とにかく処刑時の数は数百人単位で処刑され、中には、謀反には関係無い人まで処刑されたことだけは事実と言えます。

韓国の歴史の記録によると、建国当初3,200人いた功臣が、粛正が終わる頃には、40人程度しか残っていなかったと書かれたものがあります。

また、客観的に考えても、第7代王穆宗の時には、王としての資質がないうえ、子もいなかったため、密通で生まれた顕宗が後継者として選ばれています。

太祖王建の王子は25名もいたのにも関わらず、この時点で、ほかに候補者がいなかったのは、それほど多くの親族や王子が粛正されたか、王子や王族は、身分を捨てて逃げ出すほどの恐ろしい状況があったことも推測できますね。

そのほかにも、密告した者には、褒美を与えるなどし、粛正の理由を探していたことも記録されています。

光宗に対する復讐の根を断つためとは言え、「一族を皆殺しに!」というくらいのレベル以上の粛正が行なわれたのかもしれません。

韓国ドラマ「光宗大王 〜帝国の朝〜」のネタバレあらすじ(粛正一部始終)

969年、最も大きな粛正が行なわれたようですが、その事変が韓国ドラマ「光宗大王 〜帝国の朝〜」(2002年制作・放送)でドラマ化されました。

その粛正のあらすじが、以下のように描かれています。

謀反の発端:「奴婢按検法」を施行

光宗は、「奴婢按検法」を施行するにあたり、反対意見をすべてを退け、人事の異動も発表しましたた。反対勢力を遠ざけ、新侍中にワン・ハムミンを据え、「余の命をすぐに天下に知らせろ」と命じます。

その頃、平州(ピョンジュ)一派は、次期国王候補としてヒョウン太子を掌中に取り込もうと画策していました。

「奴婢按検法」の施行から間もなく、光宗は、平州一族を狩猟に誘い、松岳山への狩猟を計画します。

平州一族は光宗が油断している隙をついて奇襲をかけようと画策していました。

しかし、彼らの動きを光宗はすべて読みつくしており、これは狩猟の名を借りた“逆臣狩り”だったのです。

大勢の兵士を連れて現れたパク一族を問い詰める光宗。

クォン・シンの告発を受け、光宗に「チュン・ホンとワン・スンは謀反を企てた」と進言した家臣のチャン・ダンソルとワン・ウク。

ヒョウン太子と平州一族の処遇について、光宗は苦悩していたところ、側近のユ・シンソンら若い臣下たちは「機会を逃してはなりません。全員殺しましょう」と強く迫ります。

ついにチュン・ホンとワン・スンの推問が王宮内で始まった。二人は罪を認めたものの、共謀者について決して口を割ろうとはせず、目を覆いたくなるほどの拷問が皆の前で行われる。

光宗は「彼らの共謀者は誰もが知っている者だ。

その中には王族もいる」と言い放ち、その日の推問を一時中断させた。臣下たちは光宗の残忍な一面を垣間見て震え上がるのだった。

光宗のもとを訪れたウォンニョン太子とヒョソン太子は「大逆の共謀者はヒョウン兄上です」と言って、王室の兄弟と共同で作った上書を差し出した。しかし、光宗は「ヒョウンの立場になって考えろ」と言って、太子たちを帰す。

ついに光宗は罪人たちを釈放することを決意する。残酷な拷問(ごうもん)を行うも、死刑に処さなかったことに周囲は違和感を覚えるが、光宗は「余は血を望む君主ではなく、慈愛に満ちた国王になりたい」と自らに言い聞かせた。それを知ったシンソンたちは「すべてが台無しだ」と落胆するが、大殿へ出向いた彼らに、光宗は「真の権力者は戦わずに天下を治める」と告げた。

次なる改革・科挙制度

雙冀は「奴婢按検法」に続く第二の大改革法案として、科挙制度の導入を提言し、光宗はそれを取り入れた。

次なる改革・科挙制度に期待をふくらませていた。雙冀と元鳳省の学士たちは速やかに科挙導入へ向けて動き始める。しかし、予想通りそのうわさを聞いた豪族たちから不満の声が上がった。

そんな中、内密に平州(ピョンジュ)一派を夕食に招待した光宗は「公たちはもう死んだも同然」とくぎを刺し…。

一方、郷里の平州(ピョンジュ)で暮すことを決意したヒョウン太子は、フンファ君らに見送られ王都を出ていく。

宴(うたげ)での光宗の発言を非難したソ・ビル公に激怒した光宗は、ソ公の首をはねろと命じた。

皆の思いに光宗は刑を取り消すが、これを機に陛下を恐れた臣下たちは、誤りを進言できなくなってしまう。

謀反ー大規模な粛正の始まり!

5年後、光宗は西都へ巡行することを決める。

黄州(ファンジュ)にいる息子のワン・ジュにも、光宗が会いに行くと聞いたテモク王妃は心から喜ぶ。しかし、巡行のうわさを耳にした平州(ピョンジュ)のスンギョンたちは千載一遇の機会と考え…。

王族を同行させ、たった200人の兵だけを伴って地方巡行に出かけた光宗。

そのころ、平州では、スンウィ兄弟が光宗の到着に備えて、極秘裏にクーデターの準備を進めていた。

ついに平州へ到着した光宗は、迎えの集まりの中にパク・スギョンが居ないことを不思議に思うが…。

屋敷が平州軍に包囲されたことを接主から知らされたシンソンは、どうしたら光宗の命を救えるか考えをめぐらせていた。

別宅に放たれた火は瞬く間に燃え広がった。

替え玉として国王の衣装に身を包んだシンソンは、光宗に最後の別れのあいさつをし、二人はかたく抱き合う。

焼け跡の中から光宗の亡きがらを見つけたスンウィは、父に「次期国王にヒョウン太子を推薦するつもりです」と告げた。

そのころ、無事に裏道から逃げ出した光宗は、シンソンの忠義に感謝し、自分の愚かさを深く後悔していた。

逆謀に参加した全兵士の首をはねるよう命じた。さらに、重罪人たちを王都へ移送するよう告げる。

一族を皆殺しにされ、息子たちを王都へ移送されたパク・スギョンは、深い悲しみの中で自害した。

一方、シンソンを失ったことで心が氷のように冷たくなってしまった光宗は、周囲の者が必死で止めるのも聞かず、平州の密書の内容から黄州一族や太子、9歳の息子ワン・ジュまでをも罪に問おうとする。

我が子ワン・ジュに対しても、服毒の刑を言い渡した光宗。

それを聞いたテモク王妃は怒りと悲しみの末、「私が先に死にます」と言って光宗の前で自らの喉元にやいばを突きつけ、ワンジュの死刑を阻止した。

そんな中、ついにヒョウン太子の刑も執行される。都城門の外にあふれた死体を供養するキュニョは、あまりにも無慈悲で残酷な光宗の命令に心を痛める。

重臣のチェ・ジモンまで、流刑に処した。

そんな折、光宗は王師のキュニョが、死んだ逆臣の薦度祭(チョンドジェ:死者の魂をなぐさめ、霊界に引導するための儀式)をあげていることを知り心が波立つ。

真意を問う光宗はキュニョから“哀れな国王”と言われて憤り、「夜が明け次第、やつの首をさらせ」と言い放った。

※あらすじの引用元:「BS朝日」より

まとめ
・玉座を継承できる対象者が多すぎたこと。
・まだ開国したばかりで、開国功臣や初代王と姻戚関係をもった豪族が多すぎたこと。
・光宗の改革が、開国功臣(豪族)に与えた打撃が大き過ぎたこと。
・他の豪族の見せしめにもしたかったのか、粛正(処刑)される対象が多すぎたこと。
・969年の謀反で冷静さを失い、感情的になり過ぎたこと。

などが、光宗を”血の君主”にしてしまった原因と考えられます。

最後は、忠臣のシンソンを失い、妻子も疑うなど、精神的にも不安定になり、信用できる人物が周囲にいなくなっていたのかもしれませんね。

韓国史劇では、”玉座は孤独”だという台詞がよくありますが、大量の処刑(殺人)を繰り返して、幸せな心境を持てるはずもありません。

その後、まだ5~6年間も在位期間がありますが、この期間に、さらに残党の粛正や逃げ出す王族などもいたのかもしれません。

光宗51歳で病死で幕を下ろすこととなりますが、父親の大量の処刑(殺人)の怒りや冷ややかな目線は、息子の第5代国王景宗が受け継ぐこととなります。

第5代国王景宗以降の時代は、韓国ドラマ「千秋太后」で描かれています。史実のエピソードも多く描かれており、この時代に興味ある方には、おすすめなドラマです。

また古いドラマですが、『光宗大王 〜帝国の朝〜』(2002年韓国KBS、演:キム・サンジュン)も、光宗の即位から大規模な粛正までの流れを史実に近い脚本でドラマ化されています。

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