威化島回軍とは?
威化島回軍(イファドかいぐん)は、高麗末期の(禑王14年)に、遼東攻伐軍の将軍であった李成桂が起こした政変。
遼東攻伐軍の将軍に任じられた李成桂が、駐屯地の威化島から攻伐軍の主力部隊を首都の開京(現在の開城)に帰還させ(回軍)、崔瑩を中心とした政権を倒したもので、高麗王朝崩壊の重要な契機となった政変のことです。
威化島回軍の詳細
遼東征伐の決定の経緯
1388年2月、元を倒して政権を確立した明の洪武帝は、高麗に対して元の時代に得た旧領を返還するように要求するとともに、
3月には、鐵嶺衛を設置し鉄嶺以北の土地を明の管轄下に置くと通告してきました。これは、明の直轄地となることを意味していました。
これに対し、親元派が主流であった高麗朝廷は議論の末、遼東征伐をすることを決定します。
この決定に、李成桂は、「四不可論」を掲げて反対を表明しました。
・小(高麗)を以て大(明)に逆うは、一の不可なり。
・夏月に兵を発するは、二の不可なり。
・国を挙げて遠征せば、倭(日本)はその虚に乗ぜん、三の不可なり。
・時方に暑雨し、弓弩の膠は解け、大軍は疾疫せん。
というものでした。
つまり、小国が大国に逆らうのは良くないし、今、兵をすべて遼東に派兵すると、各地で出没する倭寇から、国を守るための兵士が足りなくなってしまうこと。
4月に兵を徴収するのは、田植えなどを女性・子ども・老人ですることになり大変なので、田植えが終わった後が適切な時期。
また、梅雨に進軍すると、鴨緑江が増水し渡河できないだろうし、雨に濡れれば、弓が使えなくなり、疫病も流行りやすくなるからやめた方がいい。
というものでした。
しかし、崔瑩将軍は、遼東を放っておけないと強気に出たため、王命に逆らえず、出征することになります。
当初は、崔瑩を総司令官に、李成桂(イ・ソンゲ)、曹敏修(チョ・ミンス)を、左右都統使に任命し派兵しようとしましたが、
出発直前で、禑王は、崔瑩が自分の側にいないと、命の危険があるかもしれないと不安がり、崔瑩将軍は、開京に残ることになります。
鴨緑江の中州(威化島)で足止め
李成桂の予想通り、長い梅雨のため鴨緑江は増水し、渡河できずにいました。
無理に渡ろうと鴨緑江に入った兵士は、次々と流されたり、溺れ死に、渡れる状況ではありませんでした。
崔瑩将軍は、明に気付かれないように出征し、速攻して明の機先を制することが、小国が勝てる唯一の作戦と考えていたため、
兵士の食料も現地で、「勝利後、手に入れればいい」と考え、
5万人分の兵糧を十分に持たせてもらえなかったことも、李成桂の不安材料でした。
結局、弓弩の膠は解け、軍の兵士は次々と疾疫し、兵士の士気は下がり、
李成桂は、王と朝廷に回軍をさせてくれるように何度も書を送りましたが、
すべて「進軍せよ!」の返事しかなく、
李成桂は、曹敏修を説得して、王と朝廷の決定に逆らい、回軍を断行しました。
開京に戻る
開京に戻ると、まずは、崔瑩を捕捉して配流後に処刑しました。
禑王も廃して、江華島に追放した後に、賜死しました。
この威化島回軍は、李成桂が政権の実権を完全に掌握したことで、後に、朝鮮王国を建てる足がかりとなります。
その他
李成桂たちが回軍し、南下する際は、禑王と人民達に被害が出ないように配慮しながら進み、
その際、禑王の臣下や人民達は、酒や食料を分け与えてくれたそうです。
そのおかげで、兵糧は底をついていたにも関わらず、元気に帰京することができ、迅速に、崔瑩の軍隊を撃破する行動に移れたということです。
人民達が喜んで食料を差し出した理由の一つには、
「戦で家族を失うかもしれない!」
「家族を失った後、田畑を耕す男手が無くなるため、将来を悲観した思いで家族の帰りを待っていた!」
などの気持があったのかもしれません。
韓国ドラマ「大風水」では、回軍を決断する時、そんな民の気持を描いた場面がありました。
歴史的にも、遼東征伐は、民は望んでいなかったことが残されており、
回軍を断行してくれた李成桂に対し、民の人望を集めることにも繋がったのかもしれません。
威化島回軍の場面がある韓国ドラマは?
・「龍の涙」(韓国KBS、1996年から1998年放送、イ・ソンゲ役:キム・ムセン)
・「大風水」(韓国SBS、2012年から2013年放送、イ・ソンゲ役:チ・ジニ)
・「六龍が飛ぶ」(韓国SBS、2015年から2016年放送、イ・ソンゲ役:チョン・ホジン)
・「鄭道伝」(韓国KBS、2014年放送、イ・ソンゲ役:ユ・ドングン)
・「私の国」(韓国JTBC、2019年放送、イ・ソンゲ役:キム・ヨンチョル)
※参考:「Wikipedia」「GCA東京 学習院大学 国際センター 旧国際研究教育機構・李相勲 「李成桂の威化島回軍」より」、ほか、韓国ドラマのあらすじより