イ・ソンゲの後継者問題
朝鮮王国を建てた 初代朝鮮王 の 成桂(イ・ソンゲ)は、自分の後継者を決める際に、開国に最も貢献した息子の五男イ・バンウォンではなく、八男のイ・バンソクを世子にしました。
イ・ソンゲには、二人の妻がおり、長男から六男までが、神懿王后韓氏の子で、七男と八男は、神徳王后康氏の子で、腹違いの兄弟でした。
普通なら、後継者は、長男となりますが、長男はすでに亡くなっており、次男以降から世子を選ぶことになりました。
イ・ソンゲは、神徳王后康氏の方を寵愛していて、王妃の座も神徳王后康氏とし、神懿王后韓氏の方を側室という扱いにしていたのです。
長男がいないのなら、「次男へ!」という声が上がらなかった理由に、次男は後継者を望んでおらず、また王という器でもありませんでした。
長男でないのなら、どの王子でもいいのでは?
という解釈から、王子の中で一番の開国貢献者であるイ・バンウォンの名前も上がりました。
ところが、イ・バンウォンは、王妃の神徳王后康氏のことを快く思っていませんでした。
神徳王后康氏も、イ・バンウォンは非情で荒っぽい性格から、「もし、イ・バンウォンが王となれば、私と子供たち(長女、七男と八男)は、皆殺されてしまう!」と、イ・ソンゲに泣きすがります。
王妃の神徳王后康氏を心から寵愛していたイ・ソンゲは、イ・バンウォン以外の候補で考えます。
そんな時、イ・ソンゲの軍師とも言えるチョン・ドジョンが、幼い子どもの方が、自分の考える世を作れると考え、八男のイ・バンソクを推薦しました。
第一次王子の乱
開国に貢献したイ・バンウォンからすると、貢献に値する褒賞はなく、腹違いの弟が世子となり、不満が天を突くほどになります。
そのうえ、チョン・ドジョンの目指す政治は、王は象徴的なものとなり、政治は臣下が行なうー、というもの。しかも、イ・ソンゲの信頼は厚く、兵権も朝廷も最高権力を与えられ、すべてを掌握していたのです。
イ・バンウォンは、チョン・ドジョンの目指すものは、王権を揺るがされる計画であることを知ると、神懿王后韓氏の実子である王子たちとともに、世子とチョン・ドジョンを暗殺する計画を練ります。
ある日、イ・ソンゲが、意識がないほど体調悪く寝込んだ時、万が一、このまま意識を戻さねば、八男のバンソクが王になってしまうと、「第一次王子の乱」を実行に移します。
世子、七男、チョン・ドジョンと重臣たちを、手分けして同時に殺害しました。
その後、この乱を計画した自分がこの流れで王になることは、民心を得られないと考え、嫌がる次男(定宗)に王の位を譲位をさせ、イ・ソンゲを上王へと勝手に行なってしまったのです。
第2代王定宗は、玉座への欲がなく、しかも、側室に子どもは複数いたものの、王妃金氏との間に嫡男が無いことが、イ・バンウォンにとって、とても好都合なことでもありました。
しばらくして、イ・ソンゲは、運よく意識を取り戻しますが、目が覚めると、世子や息子、信頼していたチョン・ドジョン、重臣たち皆が殺害され、譲位もされていたことを知らされます。
イ・ソンゲは、しばらく嘆き悲しんでいましたが、その後、自分の意志による譲位ではないことを証明するために、王印を持って、王宮を去りました。
この時、太祖(イ・ソンゲ)は、太宗(イ・バンウォン)に深い憎悪の念を抱き、数年にわたり親子関係は悪化状態になります。
第二次王子の乱~イ・バンウォンが玉座につく
表向きは、次男の定宗が国王であるだけで、政治的には、すべてイ・バンウォンが取り仕切るようになります。
四男のイ・バンガンは、それを不満に思い、自分自身も第一次王子の乱に貢献し、兄でもあることから、玉座が欲しくなり、イ・バンウォンを殺害する計画を立てます。
またもや、王子同士の乱が起きました。これが、「第二次王子の乱」と言われるものです。
しかし、この乱は、イ・バンウォンの勝利となり、玉座を争う王子は、すべていなくなりました。
イ・バンウォンは、王世弟(次の世継ぎ)となり、第二代王の定宗に圧力をかけるようになります。
そのため、たった二年間の治世で、定宗は、イ・バンウォンに譲位をし、上王になりました。
第三代朝鮮王となった太宗(イ・バンウォン)
国王となった太宗は、兄弟の中で唯一、科挙(官僚登用試験)に合格した知識と頭脳を持ち、国制整備と王権強化など、積極的に改革を行なっていきます。
特に、チョン・ドジョンが目指していた政治、私兵の廃止、軍備強化なども多く取り入れたそうです。「申聞鼓(シンムンゴ)」という制度(民が直接王に訴えをできる制度)、中央集権化、鋳字所を設立して金属活字による書籍を印刷することにも成功。対外的には明の永楽帝から朝鮮国王として冊封を受け、対明関係を良好を築いていきました。
王に就任した直後は、民の反発も多く、初代朝鮮王のイ・ソンゲとの和解・国璽を譲り受けることが重要な課題でした。
咸興に住む初代王イ・ソンゲに、「都に戻ってほしい!」と太宗の気持ちを伝えるための使者(差使)を送ったが、その度に、使者は殺され、任務を遂行しようと行ったが帰って来ない人またはそんな事を示して「咸興差使」という言葉が生じるほど、恐れらる任務となった。
イ・ソンゲに協力する部族や、神徳王后康氏の親戚であった安邊府使の趙思義が、むごい仕打ちを受けた神徳王后康氏の仇を討つべしと、咸鏡道の豪族たちを率いて決起(趙思義の乱) 。それを鎮めることを建前に太宗側も決起します。
イ・ソンゲの周辺の協力者や兵を無くすことで、今度こそ、都に戻ってもらうためのきっかけを作りたい太宗の意を込め、乱の終息後、最後の咸興差使が送られました。
都に戻る初代王イ・ソンゲの思い
咸興差使の必死のお願いに怒りを鎮めた???
意外にも、イ・ソンゲは、都に帰ることを承諾してくれます。
喜びに沸いて、宮殿の門まで、イ・ソンゲを直々に出迎える第三代王太宗。
その時、馬に乗って帰ってくるイ・ソンゲと再会した瞬間、持っていた弓を太宗に向けて矢を放ったといいます!
弓の名手として名高いイ・ソンゲが放った矢は、太宗には当たりませんでした。
太宗は、イ・ソンゲが帰ってきてくれただけでも嬉しいと喜び、矢を放ったことを騒がず、そのまま祝宴の席に案内するように命じました。
宴席では、太宗とイ・ソンゲは隣同士でお酒を酌み交わします。
誰もが、矢を放った件で冷や冷やとしながら宴会が始まると、今度は、イ・ソンゲは、懐に隠し持っていた鉄鎚を太宗に向けて振り下ろしました!
みんなが、「ヤバい!」と思った瞬間、その鉄鎚も太宗を外し無事だったのです。
二度に渡る殺害の失敗に、イ・ソンゲは「これは、天が認める王だ!」と悟り、和解をしてくれ、国璽(王印)を授けてくれたそうです。
以後は、宮殿で余生を送り、太宗の政治に口を出すことも無かったと言います。
王朝の親子喧嘩は、その喧嘩に至る内容も、和解の仕方も、一般の人とはかけ離れた凄いものですね!
かなり古い韓国ドラマになりますが、全159話、イ・ソンゲが高麗の武官の頃から、太宗の晩年までを描いた歴史劇「龍の涙」で明かされた史実に基づいたストーリーとなっています。
(※表現には、多少脚色があり、一部については複数の説があります。)
韓国ドラマの歴史に基づいた史劇は、まさに「事実は小説よりも奇なり」というものが多いです。
この韓国ドラマ「龍の涙」は、韓国で最高視聴率49.6%という人気ドラマになったそうです。
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